服部龍二「高坂正尭―戦後日本と現実主義」読後感
昨年10月末に発刊された「高坂正尭教授」の評伝を同じ猪木教授門下の末端に連なるものとして、共感と感銘をもって読了した。
<28歳で論壇デビュー>
高坂教授は昭和32年3月に法学部を卒業して、直ちに学卒助手(学部卒業後大学院を経ずに直ちに優秀な人材を後継者として任用する帝国大学系に見られた制度。それを学卒助手と呼ばれるのは本書で初めて知った)として、任用された。その意味でまさに我々昭和32年入学の京大法学部学生とは入れ違いの新進気鋭の学者の卵だった。2年半後の昭和34年9月には早々と助教授に昇進されている。2年間のハーバード大学留学を経て、帰国後の38年、「中央公論」に「現実主義者の平和論」、休む暇もなく「宰相吉田茂論」(39年)「海洋国家日本の構想」を発表。28歳の若さで論壇に華々しくデビューされた。 昭和46年には37歳で教授に昇任。その間、吉田茂のノーベル平和賞受賞工作として、エンサイクロ・ブリタニカに吉田のゴーストライターとして論文を代作したり、佐藤首相のブレインとして、基地問題、沖縄返還工作、安全保障政策などに知恵を貸すなどなどで活躍し、三木、大平、中曽根、などの歴代内閣でもコミットの程度・質はそれぞれだが、大きな役割を果たされたようだ。
28歳の若さでの論壇デビューは衝撃的であり、社会人となって数年しか経ってない小生も感嘆を覚えるとともに、「宰相吉田茂論」を読み、続いて「海洋国家日本の構想」を読んだ。しかしデビュー処女作の「現実主義者の平和論」は読みそこなったようだ。
<「吉田茂論」と「海洋国家日本の構想」>
「吉田茂論」による「商人国家観」に基づく「経済立国の思想」を日本の戦後復権の戦略として採用したのは極めて懸命な選択であったと言う議論には納得したし、吉田の権威主義的な政治スタイル(ワンマン政治)に批判的だった新聞の論調に流されて、無批判に反吉田ムードを受け入れていた不明を恥じた。
しかし第3作として発表された「海洋国家日本の構想」には、海運人として社会生活を踏み出して間もない小生には大いに感銘と多大の示唆を受け、勇気づけられたことを鮮明に覚えている。「通商国民のフロンティアは広大な海にある」という託宣には新米海運人として大いに勇気づけられた。それと共に「日本は同じ政治体制の西洋と海に隔てられる『飛び離れた西』であり、近代化を始める前から、日本は中国とは異なっていた」、言わば「東洋の離れ座敷」であり、「中国が核開発に成功したからと言って、中国に追従的な中立主義をとるべきではない」と言う地政学的な含意にも啓発された。
<文明論史家の一面も>
その後、総合雑誌などに掲載される高坂教授の「論文」や「時事評論」を読んだ記憶はそれほどないが、小生の書棚には「世界地図の中で考える」「文明が衰亡するとき」「世界史の中から考える」などの文明論的著作が今も見いだせる。それらを感動を覚えつつ読んだ記憶がよみがえる。特に「文明が衰亡するとき」は何度も読み返した形跡がある。巨大なローマ帝国が自らの重みに圧せられて、潰えていく過程。通商国家ヴェネチアが幸運と優れた外交・通商感覚に支えられて繁栄し、やがて衰亡していく運命には「商人国家」的路線を戦後再生の道と定めた我が国の運命を予告しているように思われ、身につまされる思いがした。後にその章の下敷きとなった塩野七生の「海の都の物語―ヴェネチア共和国一千年の歴史」を読み、2度もヴェネチアを訪れ、その舞台となった人工島を徘徊した時の感激は今なお忘れられない。
<「国際政治」における「価値の体系」>
高坂教授の最も体系的な国際政治論は昭和41年に中公新書から刊行された「国際政治―恐怖と希望」で、初版二万部、その後毎年のように増版を重ね、第50版で15万4000部に及ぶロングセラーとなっていると言う。この著作は読んだような記憶があるが、書棚には見当たらない。この本で高坂教授は善玉・悪玉説や国連による平和のように、問題を単純化する見方に警鐘を鳴らし、その上で「常識の数だけ正義はある」「国家は力の体系であり、利益の体系であり、そして価値の体系である。その一つのレベルのみに目を注ぐのは間違いであると説く。軍事力の増強に血道をあげる者に対しては、経済や世論が国際政治では無視できないことを諭し、経済や理想だけを語るものには「国際政治の究極的な手段は、あくまでも軍事力である」ことを知らしめようとした。この三レベル論のヒントを得たのは英国の政治学者E.H.カーの古典「危機の二十年」の中での、国際政治の政治的権力を(A)軍事的力、(B)経済的力、(C)世論を支配する力の三つの範疇に分けたところから発想を得たようだ。「価値の体系」と「世論を支配する力」は全く同じ概念とは言えないが、要するに所謂ソフト・パワーのことで、「台湾との平和統一は中国自身に魅力がなければ実現できない。今の中国は、国内に住んでいる民衆も魅力を感じるところが少ない。多くの人が海外に移住したがっている状況で、台湾の人が中国と一緒になりたいはずがない」と言われており、中国は軍事力、経済力で優っていても、ソフト・パワーで負けていると言うことになる。中国国内では「北京愛国、上海出国、広州売国」とも囁かれているとか。その劣等感の故に、逆に中国は「台湾統一は中国の核心的利益であり、武力での解放も辞さない」と呼号するのだろうか? 高坂教授の「国家の三つのレベルの体系論」は現今の東アジア情勢を見通す上でも、有益な視点を提供しているように思える。 国家がよって立つ「価値の体系」とは何か?「国家が追及すべき価値の問題を考慮しないならば、現実主義者は現実追従主義に陥るか、もしくはシニシズムに堕する危険がある。また価値の問題を考慮に入れることによってはじめて、長い目で見た場合に最も現実的で国家の利益に合致した政策を追求することが可能となる」とした上で、論壇デビュー作の「現実主義者の平和論では「日本が追及すべき価値が憲法第九条に規定された絶対平和主義のそれであることは疑いない。私は、憲法第九条の非武装条項を、このような価値の次元で受け止める」と論じた。
<冷戦後、湾岸危機に直面して改憲論者に>
しかし、冷戦終結後には改憲を主張するようになった。それは冷戦体制=二極体制の崩壊と、それ以上に湾岸戦争の衝撃によるものだったようだ。イラクのサダム・フセインのクウェートへの武力侵略は明白な国連憲章違反であり、許されるべきことではなかった。これに対し高坂教授は「危機に対して拠出金を提供することは無意味ではないが、経済以外の手段で貢献しないようであれば「日本は世界秩序の作成・維持に参加することが出来ず、それ故、弱い立場に立たされる。結局のところ、奇妙な一時の繁栄で終わった国と言うことになるだろう」と危惧した。それは憲法九条が日本国民を思考停止状態においているからで、「憲法九条を守れば、或いは自衛隊を強化したり、海外に派遣したりしなければ、平和が保たれるかのように考える。国内で憲法問題はタブーであり、常に外交、安全保障問題をサボタージュするための逃げ口上として使われてきた。このまま放っておくと、日本が世界の中で『名誉ある地位』を占めることはあり得ない」と論じた。「責任ある決断をし、行動をするということをやらなかったら、道徳的な構造、Moral Fiberが朽ち果てる」「道徳的な力が大事なんで、それがなければ国は朽ち果てる」と危機感を募らせる。「国は戦争に敗れても滅びはしないが、内面的な腐敗によって滅びる」とボルテージを上げている。何よりも高坂教授の我慢がならなかったのは、核の廃絶とか、全面軍縮とか、世界的な通貨制度の確立など、すべてできもしないことで、それを根拠にできることを批判する風潮が強まり、結局何もしないことになっていること。「日本では理想家風の偽善者が力を持ち過ぎていて、その結果少しでも責任ある行動しようとする人を苦しめている」ことだったようだ。
吉田茂首相の「商人国家論」に基づく「経済立国主義」が教条化され、「吉田体制」にまで高められてしまい、「安全保障感覚」が欠如してしまった政治家の劣化を危惧している。晩年の高坂教授は「憲法九条を改正し、PKOにもさらにはPKFのも参加しなければ、日本は新しい国際秩序つくりに参加できなくなってしまう」と主張するようになった。
高坂教授の生涯は4年遅れの後輩である我々と同じ時代の空気を呼吸し、冷戦、そしてその崩壊、新たな国際秩序が定まらない状況の苦悩と問題意識を共有している。
そして、62歳とと言う若さで肝臓癌に命を奪われた。日本の運命を憂慮し、まだやり残したことがあると無念の思いを懐きながら、最後まで約束した講演をこなし、博士論文の審査をし、原稿を書かれたと言う神々しいまでの壮烈な最後には深い感銘を受けた。
余談にはなるが、高坂教授には2度ばかり、お会いして懇談したことがある。一度目は猪木ゼミ2年先輩の木村汎(後の北大スラブ研教授)さんが、アメリカ留学中の猪木先生のお宅の留守番役をしておられたとき、訪問して歓談しているところに、高坂助教授がひょっこりと尋ねてこられた。もう一度は平成時代が始まったばかりのとき、会社で高坂教授に講演をお願いした。その際会長、社長との会食をセットし、同席したことがある。それらの出会いも、今となっては懐かしく、良き思い出である。
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