飛鳥IIオセアニア・グランド・クルーズ航海記
【グランド・クルーズに乗船を決意するまで】
「飛鳥II」は私にとっては思い入れのある船である。日本郵船が四半世紀ぶりに客船事業に復帰しようと考えたのは奇跡の復興を遂げた戦後日本経済が最後の輝きを放ち、やがてバブルの狂乱に浮かれようとしていた1980年代の後半だったろうか。当時ジャカルタ在勤から帰国し、郵船調査部で海外情報の蒐集の任に当たっていたが、その調査部に対して経営トップから、客船事業についての情報を蒐集し、報告するようご下命があった。
早速、調査に取り掛かり、今の客船のあり方は①かつてのタイタニック号やクイーン・エリザベス号などの定期航路に就航するスタイルではなく、観光バスのように観光地を周遊するクルーザーになっている。このコンセプトはアメリカで生まれ、カリブ海クルーズとして発達、定着しつつあること。②その船内構造は嘗てのタイタニック号のような、一等船客、二等船客、三等船客の階層化し、その処遇を峻別するという当時の厳格な階級社会構造をそのまま船内に持ち込み、可視化した構造ではなく、船室の広さ、豪華さの差はあっても、待遇は差別しないモノクラスでなければならないと言う設計思想となっていること。③これは決して主流とは言い切れないけれども客室を全部海に面したものとし、内側に窓のない閉塞感のある客室は造らないというAll Outside Cabin(AOC)と言う設計思想が注目を浴びつつあること。の三点を報告したという記憶がある。
この報告の趣旨が全面的に採用され、かつて令名を馳せたNYKの客船事業を復活するにあたっては、「恥ずかしいものを創るわけにはいかない」と社内はやや浮かれたようにこのプロジェクトに熱中し、第一船を三菱重工に発注、一流の画家、彫刻家に頼み込んで、船内の装飾をしつらえた。
この第一船こそ、就航後、主としてアメリカで活躍していたクリスタル・ハーモニーであり、2006年2月にその船を日本に戻し、「飛鳥II」と改名した。
そのような思い出もあって、兼ねて喜寿と金婚の記念に、この思い入れのある飛鳥IIの世界一周クルーズに乗船したいとの密かな望みを懐いていた。しかし家内の口説きに取り掛かったが、「100日ものクルーズは長すぎる」と「けんもほろろに」断られてしまった。
それではと40日弱のオセアニア・クルーズを提案、ようやく家内の同意を得た。しかし、オセアニア方面にはそれなりの因縁がある。昭和36年4月、入社早々豪州定期航路のライン・アシスタントを命じられた。初出勤早々豪阿南米課長から「君に、豪州線に就航している4隻の船の運航を任せる。何時も船の動静を正確に把握しておくように」と申し渡された。その後、席に着くや否や名古屋支店から電話があった。「Arita Maruは今何処にいるか?」の照会。その時豪州線に就航していたのは、AKITA,ARIMA,ASAMAなどローマ字に直すと一字しか違わない船がゴロゴロ。いきなりそんなこと聞かれてもと、パニックに陥り、とっさに「船は海の上にいます」と答えてしまった。するとそれこそ数分も経たないうちに「今年の新入社員には素っ頓狂な、とんでもない奴がいる」と言う悪評が郵船ネットワークを通じて全国に拡散してしまった。新入社員の未経験、不安な心境を一顧だにすることなく、悪評を撒き散らすのは、何という薄情な、或いは惻隠の情のない会社かと、とんでもない会社に入ったものだと初日早々落ちこんでしまったのも、今となっては懐かしい想い出である。
人生の駆け出しで手荒い歓迎を受けた豪州航路に今度は船客として乗船するのには深い因縁を感じざるを得なかった。
そこで紀貫之ではないが、今回のグランドクルーズ乗船の想い出を航海日誌(ログブック)風につづり、記録することにした。
【船内風景と乗客たち】
2018年1月28日
0914読売ランド発の電車で、横浜港でのオセアニア・グランド・クルーズの飛鳥II乗船のために出発。1015頃日本大通り着。1030前客船ターミナル着。1100過ぎ乗船。荷物の整理に取り掛かる。大量の衣類その他で大変。何とか引き出し、やクローゼットに収まる。やれやれ。昼食にメイン・ダイニングで隣り合わせた夫婦は世界一周に2回、オセアニアに3回、日本一周にも行きましたといういう大変なリピーターであることが判明した。海運界で30年間も碌を食んだ小生が今生の思い出にと参加したのが、馬鹿らしく思える位仰天した。夕食の際のお隣さんはハワイ住まい、成田に一泊して、乗船したというが、世界一周にもアジア・グランド・クルーズにも乗船経験があるベテランと言う。会う人会う人皆リピーターで、飛鳥IIは初めてですと名乗るのが恥ずかしいくらい。乗船早々カルチャーショックを受けた。日本には金持ちが沢山いるものだとも。乗組員のボーイやウェイター、ウェイトレスには各々顔なじみのお得意船客が乗船してきたらしく、「久しぶり」「お帰りなさい」と言うような挨拶を交わしている。まるで銀座のホステスのようだ。1900~2015ナイトショーRythm of Lifeを鑑賞後、12階の大風呂に行く。大風呂は気分が良い。大風呂はクリスタル・ハーモニーを日本に戻して、飛鳥IIに改名する際に、日本人向けに新たに設置したもの。日本人にはやはり風呂が一番だ。
1月29日
0600過ぎ起床。やることがないので船内探検に向かう。12階から5階までくまなく歩く。11階の三方ガラス張り眺望絶佳のビスタラウンジでは0600からモーニング・コーヒー(パンなどもサーブしてくれる)のサービスがあり、すでに4~5人が椅子に座って、本を読んだりしていたので、一旦部屋に戻り、本を持ち出して、ビスタラウンジに戻り、トマトジュースを注文。0700頃6階に移り、ストレッチの講習を受ける。0730頃へに戻り、家内と11階のカジュアル・レストラン:リド・カフェに行って朝食。結構美味かった。1000~1045トランプ・ゲームの講習を受ける。昼はまたリドカフェで食べる。はるか向こうの淡路島の端に明石大橋が見えてきて間もなく、神戸港着。入港着岸の様子を見学しようと7階プロムナードデッキに降りるが、猛烈な風で寒い。ほうほうの態で、屋内から外が見えるビスタラウンジに移動し、入港の様子を見学。その後ラウンジで新聞の読み残しを読む。1645~1700のSailaway Ceremonyを見に7階プロムナードデッキに降りたが、温かいワインを飲んでも猛烈に寒い。最後まで見ずに、退散。1715~1850夕食。今夕のお隣さんは松山のお医者さん。もう退職されているというが、アジア・グランド・クルーズにも参加したとか。要するに初めてと言うのは珍しいということか? 1915~1930船長、機関長などによる鏡開きのお祭り。樽酒がおいしかった。
1月30日
朝、0600前起床。7階プロムナードデッキを一周歩いてみる。船尾デッキは波浪で濡れているが、それほど寒くない。一路南下した効果はテキメンだ。その後パームコートに直行。「モンテクリスト伯」第3巻を読み始める。0700寸前まで読んで、ストレッチ会場に行くが、もう満員、マットがなくなっている。朝食の際、同席したご婦人は叔母さんのお供できたとか。日本一周クルーズが気に入って、乗船中に世界一周を申し込んだら、もう満席と言うので断念し、オセアニアを申し込んだという。7月の時点で来年の世界一周が満席とは。毎日驚くことばかり。夜は船長主催のウェルカム・パーティーに続いて、フォーマル・ディナー。年寄りばかりだが、何となく華やかな雰囲気にはなった。堤船長は昭和63年入社。神戸商船大学卒。小生の27年後輩となる。入り口で「寺島船長や稲垣船長と同期です」と挨拶しておいた。63年と言うと小生が郵船の調査部長になった年だから、ほぼ入れ替わりと言うことになる。船長の挨拶によると、今回の乗船客は526人と言う。船客の定員は872名だから、かなり余裕があるということになるが、空き室があるという話は聞かなかった。船室を1人で占拠している優雅な人がかなりいるということだろうか?
2030より山形由美のフルート・コンサートを鑑賞。
【太平洋戦争の激戦地を往く】
1月31日
0600前起床。11階パームコートでお茶、FAX受信された共同通信ニュースを読む。0630~0650プロムナードデッキのウォーキング講習に参加。0700~0730ストレッチ。リドカフェで朝食。1000~1015写真講習会オリエンテーションに参加。1100~1145社交ダンス講習会。講習中に本船が硫黄島1マイル沖を通過し始めた。講習を途中で抜け出し、硫黄島の様子をつぶさに観察。西端の摺鉢山以外は平たんな台地。自衛隊のレーダー基地などがあるらしく、兵営らしき建物、レーダードームが見える。あの摺鉢山で日米軍が死闘を繰り返し、多数の戦死者を出した場所だと思うと感慨を禁じえず、ひそかに黙とうを捧げた。自衛隊員達が駐留しているだけで、一般住民はいない筈なのに日本の携帯電話が通じるのには驚いた。NTTドコモも,auもアンテナを張ってサービスしているようだ。
午後1415~1545リドカフェでコントラクトブリッジ講習。1630~1700初乗船者歓迎パーティー。そこでの抽選で運よく船長テーブルでの夕食の栄に浴した。1988年入社と言うから、娘の大学卒業より1年早いだけだ。郵船では4年くらいダブることになるが、ほぼ入れ替わりと言う感じの世代だ。昔話に花が咲いた。
2月1日
大分東に航海したので、船内時間を1時間早める。0600前起床。パームコートでジュースを飲み、Fax版読売新聞を読む。0630のウォーキング説明会に行くが、今日は風がきついので、ウォーキングは中止と言う。仕方なく自分でウォーキングをやろうと思ったが、どうせならとジョギングに切り替える。5周2.2キロを走る。その後ストレッチ。汗かいたので、12階大風呂で汗を流す。家内はブリッジ教室教室に出かけ、小生はパームコートで「モンテクリスト伯」。1100~1145社交ダンス教室。ブルースのステップがうまく行かない。昼は5階メイン・ダイニングで、ちらし寿司。1415~1545ブリッジ教室。2000~2040アスカオーケストラ・バンド・ショー。
2月2日
0800サイパンのベイカー埠頭に入港。マトソンのコンテナ・ターミナルらしく、マトソンのコンテナが沢山積んであるが、ガントリー・クレーンがない。ここには貨物量が多くないのでギア付きのコンテナ船が来るのだろう。マトソンは郵船のコンテナ化開始時の提携先、コンテナ・オペレーションの師匠筋にあたるが、外航船は儲からないと見るやさっさと撤退し、米本土/ハワイ間の内航サービスに特化し、今も隆盛を続けているようだ。蓋し慧眼と言うべきだったのかもしれない。
船上での入国審査の後、1020頃上陸、沖合に浮かぶ絵のように美しいMahagana島に向かう。1周1.4キロのサンゴ礁に囲まれた島の周辺の海は目の覚めるようなエメラルド・グリーンに輝いている。「エーゲ海の青い海」と言うが比べものにならないくらいの美しさだ。浜辺でビーチチアに寝そべり、水遊び。ブイ沿いの海には熱帯魚が沢山見られた。1515頃帰船。直ちに風呂で塩を流す。1645節分祭り。乗組員の鬼や太鼓で盛り上がる。出港後1816頃水平線沈む夕日が鑑賞できた。ほぼ完ぺきな落日風景だった。初めての経験だったかもしれない。中には珍しいグリーンフラッシュを目撃できた人もいたようだ。夕日が沈む左にテニアン島が見える。万歳クリフの悲劇など、日米激戦の末、サイパンが陥落した後、隣のテニアン島に飛行場を整備し、東京大空襲のB29、広島、長崎への原爆搭載機エノラ・ゲイの出撃基地となった。平和な飛鳥IIからその島影を見るのは複雑な心境である。
最後の水路ブイが終わりパイロットが下船するまでの出港風景も見学できた。
2月3日
本日は終日航海。海はかなり荒れているらしく、7階プロムナード・デッキのドアは閉鎖。朝はまだ開いていたので、11階で新聞一覧、モーニングコーヒー後、プロムナードデッキを4.5周した後ストレッチ体操。1000~1045元文化放送アナウンサーの堤江美女史の講演「日本語の美しい響きの秘密」、なかなか面白かった。1100~1145社交ダンス教室。ブルースのステップがなかなかうまく行かず、嫌になる。1415~1545コントラクトブリッジ教室。その後アイスクリームを食べなら、昨晩の夕食隣席の叔母・姪2人組とおしゃべり。出身は小生と同じ長浜と言い、奇遇である。子供はいないし、お金を残しても、しょうがないので、楽しむことにしている。日本一周は2回乗船したし、来年はアジア・クルーズを下船までに申し込むという。意外とそういう人が多そうだ。夜はJille On Board Concert.
2月4日
1000~1045第一回写真教室。講師はシステム・エンジニアを辞めて、アジアと世界を放浪した末、写真家に転向したという。「絶景写真」の撮り方。なかなか面白かった。その後また社交ダンスの講習。やはり上手く行かい。嫌になるが構わず続ける。
1300~1330各会場に分かれて、県人会。同席の夫婦は磯部夫妻。世界一周に3回乗船。今度はアジアクルーズに乗るという。誰に会っても、「参った。参った」の連続。日本にはそんなにも金持ちがいるのかと言う感慨。
今夕の夕食のドレスコードはインフォーマル。
飛鳥メールを開いたが、もちろん受信なし。パソコンルームの女性に助けてもらって、家族のアドレスをアドレス帳にインポートに成功。やれやれ。
2月5日
1500ニューブリテン島のラバウル沖を通過。ラバウルは第二次大戦中日本の海軍航空隊の基地があった港だ。「さらばラバウルよ。また来るまでは。しばし別れの涙がにじむ」の軍歌が思わず口をついて出る。こんなにも遠い、赤道直下の暑いところまで戦線を拡張した日本はある意味で大したものだとも思った。
昨夜1933赤道を通過したのを記念して、本日1900~1930プールサイドで「赤道通過祭り」で、ゲスト・エンターテイナーの瀬木貴将(南米民族楽器演奏者)が扮するネプチューンから船長が赤道通過許可を受ける寸劇で盛り上がる。昼過ぎ「1000日乗船者」記念プレートを克明に見た。1000日以上乗船者は56人、2000日以上乗船者は1名はETUKO KOSAKAさんと言う。1000日以上乗船と言うと世界一周に10回も乗らなければ達成できないということだ。
午後PCルームで家族あてEメールで近況報告。サイパンでWIFIが繋げなかったし、ケアンズでもその機会に恵まれないかも知れないので、取りあえず近況を連絡した。
【南半球は別天地だが結構時化る】
2月6日
ソロモン海峡を通過して、ニューギニア当前方のEast Islandを通過して珊瑚海に入った。穏やかな航海。航跡が濃紺色で美しい。社交ダンス、ブリッジの講習をこなす。夜2100頃星空講習。真っ暗な海の上ではは星が良く見える。オリオン、昴、ベテルギウス、シリウス、マゼラン大星群など。時間がまだ早く、偽南十字星は見えたが、本物の南十字星は見えなかった。そのうち雲が広り、何も見えなくなったの途中退散。
2月7日
今朝は若干寝過ごし、0615起床。ウォーキングに飛び出したが、すでに太陽が高く、サングラスをかけないとまぶしい感じ。5周するつもりが、4周で終わってしまったようだ。低気圧が接近してきたらしく、終日雨模様。ダンス講習もふらつき、ステップがうまく踏めない。午後のブリッジ講習も気持ちが悪いと中座する人する人もでる。11階リドカフェではウェイターが年寄りの女性には腕を貸し、お盆も受け取って、席までエスコートする様子は堂に入ったもの。一流介護士も顔負けだろう。乗り組みの訓練しつけが行き届いているのに感心した。夕方またJelleの第二回コンサート。
インフルエンザが流行し、そのうえ大時化で気分が悪くなった所為か、夕食も空席が目立つ。
2月8日
今日はケアンズ入港の日。
0535起床。ケアンズの入港シーンを見るため、ウォーキングをしながら、港へのアプローチを見ながら歩いていると、0600頃船尾から回り込んだパイロット・ボートからあっという間に港内パイロットが乗船した。着岸まで時間がありそうなので、大風呂に行く。朝日を浴びながらの入浴は雄大な気分になる。風呂談義で話した人は八ヶ岳山麓、野辺山の牧場経営者だったが、数年前に牧場経営をたたんで、その記念に世界一周クルーズに乗ったという。初めて金持ちの社会的背景の一端が分かった。
0840ギャラクシーラウンジに集まり、Kuranda Forestationへのオプショナルツアーに出かける。1020頃ケアンズ郊外のフレッシュ・ウォーター駅から高原観光列車に乗り込む。この列車はかつては金山への資材人員を運ぶ鉄道だったものを観光用に転用しもの。途中大きなU字カーブがあり列車の前後見えるのと、バロン川の雄大な滝が見ものだ。1200Kuranda駅着。アーミーダックと言う軍用水陸両用車に乗り込み。アマゾンよりも古いと言う世界最古の熱帯雨林を見学。珍しい蝶、亀、トカゲ、樹、シロアリの巣などが見られた。1300頃カンガルーの肉、鰐のスープなどのビュッフェ昼食。1410~1500Kurandaの街でショッピング。1550帰船。1700出港風景を見るため早風呂。1700~1840ごろまで出港風景を見守るが、なかなか航路筋に出られない。サンゴ礁が続く所為か。あきらめて、山田雅人の「語りショー」を見に行く。今日も橋田寿賀子さんが夕食に来た。
Cairnsからは世界遺産エアーズロックへの四泊一日のオプショナルツアーがある。498オーストラリアドルと高額でもあり、ケアンズ・シドニー間の航海を放棄する形ともなるので、果たして参加者がどれだけいるのだろうかと疑問に思っていたが、最少催行人数15名の処、70名もの参加者があったという。またまたみんな金持ちだと感心した。
2月9日
今朝は7階プロムナードデッキが全面閉鎖。風がきつい所為らしい。ウォーキングは不可能にとなった。ラジオ体操とストレッチに切り替える。
セールス・オフィスに立ち寄り、雑談。「シドニーから200人もの区間乗船者が乗ってくるという噂は誤報で、区間乗船者は23名とのこと。
1600~2000 Deck Dinner & Fruits Buffet。一種のお祭りで、ニュージーランドからのマウイ族の歌と踊りは迫力があり、フィナーレに近づくにつれて大いに盛り上がる。
このデッキ・ディナーで同席した夫婦は飛鳥は初めてと言う。今までパシフィック・ヴィーナス→日本丸→飛鳥IIとグレードを上げながら、3船目になるが、日本丸の方がフレンドリーで、料理も美味かったとの評価。乗船後2~3人から「日本丸とは比較になりません」と聞いていたが、初めて商船三井の日本丸の高評価を聞いた。
2月10日
本日はドレスコードはインフォーマル。1700以降その格好で過ごせということなのだが、カジュアルのまま、食事(1900)前の長唄のショウを見に行ったら叱られた。食事の時だけ、ジャケット、ネクタイで行けばよいと思っていたが、そういうことではないらしい。失敗。反省。
2130よりスターデッキで星空観測。憧れの南十字星、シリウス、銀河、冬の大三角形、六角形、スバルなどが良く見えた。南十字星から5倍するとそこが南を指すというが。南極星と言うのはないらしい。ブリスベン近くまで来てようやく南十字星が見えるということは、ジャカルタあたりでは、夜相当遅くならないと、上に上がってこないということになる。ジャカルタで南十字星を見た記憶がないのは無理ないかも知れない。
2月11日
本日はストレッチとダンス教室、1000~1045写真教室第2回以外予定なし。午後、パームコートとビスタラウンジで新聞と読書。0930頃イルカの接近が見られた。明日はいよいよシドニー入港である。入港準備をする。
【世界三大美港シドニー】
2月12日
0700ごろシドニー湾の入り口を通過、次第にシドニーの高層ビル群とハーバー・ブリッジの遠景が見え始める。0750頃オペラハウスを通過、ハーバーブリッジを通過したのも0750過ぎ。世界三大美港と言われるシドニー港は大きな湾の中にさらに中小の湾が入込、緑多い公園や、瀟洒な住宅が点在する。息をのむような美しさだ。湾が大きすぎ、のっぺらぼうで、工場群しか見えない東京湾とはえらい違いだ。
間もなくWhite Bayの入り口で船を180度転回して、タグボートが曳航、本船もアスタンをかけて、出船の状態で後退しながら接岸の態勢に入る。0835頃、着岸。客船専用岸壁ではなく、何の変哲もない、寂しい岸壁。隣にP&OのPacific Explorerが着岸していた。飛鳥よりだいぶ大きな船だ。しかし、ハーバーブリッジ横のバースに泊まっていたのはもっと大きいらしい。Radiance of the Seasと言うクルーズ船だが、GVTとは何処の船社かは不明。なんでもそのサイズの船はハーバーブリッジをくぐれない高さの船だという。3隻もの大型客船が同時入港しているシドニーの魅力は大変なものと感心する。
ハーバーブリッジは「洋服かけ」の愛称を持つアーチ形の重厚な鉄橋。車道だけで8車線、ほかに鉄道、歩道も通っている。1932年に8年かけてこのような巨大な橋を架けたオーストラリアの国力に感心した。
1030本船発のシャトル・バスで中心地近くの国立海洋博物館へ向かう。海洋博物館からPyrmont橋を渡って、中心地に向かう。ビクトリア女王時代の古い建物のビクトリア・ビルディングのギャラリーを抜けて、ヒルトン・ホテルを見つけ、スタッフに聞きながらようやくWIFIが繋がる。家内が喜んで、早速家族にLINEを入れる。折り返しシドニーに短期留学したことのある孫娘から「タンガロン動物園か、マンリー・ビーチに行け」との返事が来る。ひとしきり交信した後、やることがないのでCircular Quayまで歩いてみる。その辺で丁度1230になった。夕方オペラ鑑賞もあるので、大事をとって1330のシャトルバスに間に合うよう折り返し、海洋博物館に戻ることにする。1255頃到着。橋のたもとでアイスクリームを食べ、海洋博物館横のシャトルバスに乗り込む。
1400前帰船。さっとひと風呂浴び、1530発でオペラハウス行きのフェリーに向かう。1625頃オペラハウス着。1700~1800飛鳥貸し切りでのオペラ歌謡コンサート。服部郵船クルーズ社長の挨拶の後椿姫やカルメン、トーランドット、などのさわりの部分を謳いあげたもの。良い声に圧倒される。
2月13日
朝、飛鳥の前の埠頭には昨夜P&OのPacific Explorerの出帆した後、今朝には早速Seas Princessが入港していた。
0930発のシャトルバスで出発。途中コンビニで市内の電車、バス、フェリーが自由に乗り降りできるOpal Cardを買って、10ドル入金し、国鉄の電車に乗り、Circular Quayまで行き、Manly Beachへのフェリーに乗ろうとしたが、マンリーに行くには若干料金が足りないことに気がつき、岸壁の自動発券機でOPALに入金しようとしたが、2枚目がうまく行かない。埠頭の売店で入金してもらい、マンリーに向かう。1102頃マンリー着。海岸に向かって目抜き通りを歩く。まさに「ビーチ・リゾートへの道」と言う感じの洗練されたたたずまいだ。ビーチではサーファーやシュノーケルで泳いでいる人など、ハワイとあまり変わらない雰囲気だ。海岸線を岬の方に向かって歩き始めたが、家内が草臥れたらしいので、岬経由帰船をあきらめ元の道を戻る。途中スターバックスで、コーヒーとヨーグルトを注文。ヨーグルトは食べきれない量だったので、食べ残し、飲み残しをテークアウトし、フェリーに戻る。1215のフェリーに丁度間に合った。1345頃Circular Quay着。ロック地区の古民家カッドマンズ・コテッジ、囚人たちが手作業で掘ったというアーガイルカットを見物に行くが、見るものがマニアックすぎると言って家内の機嫌が悪くなる。またCircular Quayまで戻って、総督夫人のお気に入りの場所だったというMrs.Macquaries Chairまで行こうとするが、家内が草臥れたと言ってご機嫌斜めになり、早く船に帰りたいと言う。それではとPyrmont Bayへのフェリーで海洋博物館まで帰ろうとするが、どの埠頭から乗って良いか分からず右往左往。しかし、オプショナルツアーの訪問地McMahons Pointに立ち寄れたのは儲けものだった。1520頃帰船。
1845~1915プールデッキでボン・ボヤージ(出航)パーティ。埠頭では誰も送ってくれず、代わりに隣に係留していたSun Princessの乗客が見送ってくれた。
2月14日
本日は風が強し所為か、プロムナードデッキは使用禁止。ウォーキングを断念。朝風呂→ストレッチ。緯度が上がり結構涼しくなる。
1915~1945 5階アスカ・プラザでフォーマルディナー前のアプリティフ。バンドの演奏付きで華やかな雰囲気に包まれる。
2月15日
本日は終日航海。朝、7デッキの右舷側ドアが開いていたので、1周をウォーキング、やや肌寒さを感じたので、あと4周はジョギングの切り替える。丁度良い気温。南緯42度にもなると、季節は夏でも涼しい。1000~1100の宇宙物理学者佐治晴夫博士の「美しい人生の暦をつくるために―時間の不思議と向き合う」は面白く示唆に富んでいた。哺乳類の一生の心臓の鼓動回数は20億回。1秒に10回も鼓動する30gのハツカネズミの寿命は3年、重さ十数トンのクジラは100年近く生きる。人間の寿命も大体百歳。記憶としての「過去」の価値は、これからの「未来」を如何生きるかによって、いかようにも書き換えることが可能である。「これから」が「これまで」を決める、と言うことだった。
夕食前ロビーで区間乗船の服部郵船クルーズ社長に挨拶する。
【世界の秘境:ミルフォード・サウンド】
17:31 2018/02/16
本日はニュージーランドのフィヨルド:ミルフォードサウンド航行の日。0800頃湾の入り口に到着。パイロット乗船。湾内に入る。海面から1600mの山がせりあがる景観は見事。湾の奥に見える滝は160mの落差を誇るという。その奥は雪渓が見えた。3000m位の山かもしれない。途中オットセイも見られた。
ニュージーランド南島の東南端に位置するミルフォードサウンドは世界の秘境と言える。ノルウェーのフィヨルドにも行ったかとがあるが、ノルウェーのフィヨルドは鉄道、バス、観光船が四方八通で観光的に開発されつくしている感じだったが、ここは如何にも秘境と言う感じ。陸路アプローチするのも天候次第では通行不能となることがあるなど、やはり秘境と言う名にふさわしいたたずまいだ。
ミルフォードサウンドの次にさらに南のトンプソンサウンドに行くことになっていたが、乗客の安全を考えてスキップして、ウェイリントンに直航することにしたという。どういうことか? 途中湾内でバウスラスターを駆使して360度回頭して見せたのはせめてものサービスと言うことか?
1730頃風呂からの帰りにシドニーからオークランドまでを区間乗船する郵船の亀田君夫妻に会う。8001号室と言う。
夕食は亀田夫妻と同席する。
南半球の幸福度が高い福祉国家ニュージーランド
2月17日
本日は終日航海。朝、それほどの風とは思えないが、7階プロムナードデッキは右舷左舷のドアとも閉鎖。船尾のみ開いている状態。5周をジョギング。午前中激しい雨。視界悪い。サイクロンがニュージーランド来襲の恐れありとのことで、ウェリントン到着を速め、オークランドでの給油を前倒ししてウェリントンで給油することにしたと言う。2100すぎ給油岸壁に接岸。明朝客船バースに移動する。本日は山下春幸と言う特別招聘シェフによる新和食のディナー。メインのローストビーフは天下一品の美味だが、それまでにも山海の珍味を生かした料理が続き、ご婦人方は無念ながら食べ残した人が多かったようだ。勿体ない。
2月18日
朝埠頭を移動するというから、全く別ののところかと思ったら、同じバースの延長線上を100m程度移動しただけ。前夜飛鳥が止まっていたバースにはシドニーで隣に泊まっていたSea Princessが停泊していた。同船はミルフォードサウンドには行かなかったのだろう。
0940の集合時間で市内半日のオプショナルツアーに出かける。まず国会議事堂に行く。そこにはメルヘンチックで結婚式の記念写真の背景になる国会図書館、議事堂、ビーハイブと呼ばれる閣僚の執務室などがある。その近くに旧政府庁舎がある。これは世界に二番目に大きな木造建築と言う(一番は東大寺大仏殿)。しかし木造建築のようには見えない。
次にケーブルカーに乗る。真っ赤なケーブルカーが街に映える。上の駅の展望台からのウエリントン港の景色は息をのむほど美しい。熱海や香港に似ているようにも思える。その後ローズ・ガーデンを見学。バラ、ベコニアが美しい。一角に日本庭園があり、原爆被災地広島市から寄贈されたFlame of Peaceという石が設置されている。
次にいったん山を下って、再び別の丘マウント・ヴィクトリアに上る。ウエリントンの街全体見渡せる。ウエリントンが海沿いに開けた街であることがわかる。展望台からは空港、飛鳥も、テ・パパ・トンガレワという国立博物館も見える。
1315頃帰船。再びシャトルバスで市中に向かう元気はなかった。デッキから今日訪問した展望台やケーブルの終点を双眼鏡で探したが、何処かとはっきりは特定できなかった。山が沢山あるということだ。
1700ボンボヤージ・パーティで盛り上がる中、オークランド向け出港。Auckland到着予定(ETA)は2月20日1100。
2月19日
サイクロンがオークランドを襲うかもしれないという惧れは、熱帯低気圧が温帯低気圧にかわったこと、および進路が南島方面に向かう公算が大となったことから、かなり軽減されたようだ。明日1100の入港は大丈夫そう。夕食で隣席の夫婦は滋賀県在住。長浜生まれと自己紹介したら、親しみを感じたらしく、話が盛り上がった。「我々の世代は竹槍でアメリカと戦う覚悟だった」と言うから、90歳ぐらいかと思ったら昭和16年生まれと言う。小生より3歳も若い。しかし結構な貫禄で、話の食い違いに大笑い。
オーストラリア、ニュージーランドの歴訪先が増えるにつれて、何処に行っても、キャプテン・クックの因む地名が至る所で耳にする。ジェームス・クック船長は英国の農場労働者の息子として生まれ、船会社で見習い水夫を経験した後、海軍に入り、艦長に栄進した。1768~1779年には3度にわたる南太平洋航海では、豪州、ニュージーランド、トンガ、ニューカレドニア、クック諸島、ニューヘブリディース島などを発見。英国領と宣言した。大きな足跡を残したことから、嫌でも彼の名前を各所で目にするのは無理もないことである。
2月20日
本日オークランド入港の日。曇り時々雨の予報だが、0600過ぎ7階プロムナードデッキに出てみるとそれほど天気は悪くなさそうだった。大分暑くなってきた感じだが、ジョギングすることにした。通常のウォーカーの1.5倍のスピードだということが判明。感心したのは、数日前から杖をついた老人が杖をつきながらウォーキングを始めた。小生のジョギングの1/2のスピードだ。しかし、杖をつかねばならぬほど歩行が不十分な人がなお運動をしようと言う意欲に感服した。『「これから」が「これまで」を決める』という佐治博士の講演の趣旨もこう言うことだったかと納得した。
0900頃から1100の着岸まで、沢山の人々が、11デッキや12デッキの船首部分に集まり、入港風景を見守った。
午後は1230集合で「牧場体験とスカイタワー」のツアーに参加。牧羊犬の活躍風景と羊の毛刈りはこれまで見たこともないショーで結構面白かった。折り返して市内中央のスカイタワーを見学するスケジュールだが、バスに乗り込むころから、土砂降りの雨がふり始めた。どうなることかと心配したが、市内に入るころになると嘘のように晴れた。スカイタワーの展望台からは360度の市内の眺望を堪能。1740過ぎに帰船。1930からの夕食を早めて1800頃からにしたいと頼んだが、手遅れと断られた。
仕方なく、埠頭上に建てられたヒルトン・ホテルに行き、WIFIを繋ごうとしたが上手く行かない。結局ホテルの従業員に助けてもらって、LINE接続。一族に報告を入れる。
1930~2040夕食。夕食後小生はまた下船して、フェリー埠頭まで探検に行く。埠頭まで戻り、タブレットPCをWIFI接続したところ難なくつながった。今日の外出はこれで打ち止め。しかし、乗組員たちはこの時間になっても次々夜の街に繰り出していく。久振りの余裕のある停泊で、仕事から解放され、命の洗濯ができると言うところだろうか?
2月21日
朝0600に船を出て、早朝市内探検に向かう。フェリーターミナルまで行き、キー・ストリートをクインズ・ストリート方向に右折したが、地下鉄工事で道が塞がれているように見えたので、そのクイーンズ通りを更に左折した処、フリートマト駅に来たので、見学することにした。大きな地下駅だ。0600過ぎだが次々電車が発車する。郊外に通勤するのだろうか? その後クイーンズ通りまで戻り、ウェルスキー通りを南下して、帰途につく。ヴィクトリア通を過ぎたところにスーパーマーケット:メトロを発見。さらに途中土産物店:アオテア土産店を発見。ほぼ目的を達したので、帰船。丁度0630頃となり、ここオークランドで下船する郵船OBの亀田君、服部社長を見送れるかと思ったが、運悪く行き会えなかった。
0850集合の「オークランド半日観光」に参加。タマキドライブ→サベージ記念公園→オークランド戦争博物館→ウィンターガーデン→パーネルロードのコース。サベージ公園は戦後初代首相の功績をたたえるために造られた公園と言う。サベージ首相がニュージーランドの社会福祉国家としての基礎を築いたという。医療費はただ。年金も税金から支払われ、教育費も無償。税金は高いが、暮らしやすく、国民の満足度は高いという。戦争博物館では先住民族マウイの文化を大切しているのに感心した。マウイ民族は台湾、フィリピンなどのアジア人が渡来したもので、約800年前と言う。
サベージ公園での解説によると、あちらにもこちらにも噴火によって出来た小山が見えるという。ニュージーランドが大変な火山国だということは不覚にも知らなかった。大地震が起きても不思議ではない。1200過ぎ帰船。昼食ご1330ごろまで休憩。市内に買い物に出かける。OKギフト→アオテア→メトロの順に回り、クッキー、蜂蜜(Manuka Honey)、羊のぬいぐるみ、チーズなどを買う。1530頃帰船。すぐにヒルトンに出かけ、LINE送信、その後バイアダクト・ハーバー方面を散策。大型ヨットが沢山係留されていて、City of Sailingの名に相応しい景観だ。1700過ぎ帰船。パスポートを返却。風呂に入って、アトラクションと夕食。
本日の歩行数は18034歩。途中で足が痛くなる。
出港時オークランド港には飛鳥のほか、シドニーで隣に停泊していたSea PrincessとFred.Olsen Cruise LineのBlack Watch(リベリア船籍)が在港していた。北半球の冬の季節は南で稼ごうということだろうか? 同じようなルートで多数のクルーズ船が運航している様子だ。
2月22日
今日はそれほど暑くないので、プロムナードデッキをジョギング。ストレッチ。ダンス教室では足が痛くなる。
1000~1155佐治晴夫博士の講演「般若心経を科学する―262文字に秘められた生き方指南」。「心の救済を描いた般若心経の論理を数学の立場から読み解くと、意外にも、最先端科学が描く世界や素粒子の世界観に近いことがわかる」と言う極めて難解な講演だが、会場はほぼ満員の盛況。このクルーズ船客達は殆ど年寄りばかりだが、結構知的レベルが高いということかと驚いた。
2月23日
本日も終日航海。メイン・ダイニングでの昼食の際、隣り合わせた乗客が郵船の元機関士だった。昭和7年生まれと86歳と言うから、「ひょっとして、昭和29年入社の青柳さん、稲富さんなどご存知かと聞いたら、同期だという。もっとも家業の酒屋を継ぐため、6年で退職したという。杉並区和泉町在住。青柳さんの話や、兄が住んでいた方南町周辺の話で盛り上がる。奇遇と言うべきか? セールスオフィスの話だと「何回もお乗りいただいているお客さん」だとのこと。
午後。セールスオフィスを冷やかしに行く。今年の世界一周は満席の人気と言う。オセアニアと世界一周の間のつなぎのショート・クルーズも爆発的な売れ行きと言う。世界一周から帰投後の夏休みシーズンも結構盛況と言う。しかし、世界一周の予定がない来年は1~3月のアジア・クルーズ終了後は目玉がなく、苦戦するのではないかと。友達と国内クルーズを安く乗れるのチャンスかもしれない。
【天国に一番近い島―ニューカレドニア】
2月24日
0800前ヌーメア港に入港。0850「ヌーメア半日観光と博物館」のツアーに出かける。まずFOLの丘に行き市内を俯瞰し、その後朝市見学、次に博物館を見学した。ポリネシア文化がよく保存されている。またバスに乗り、ウィントロの丘に向かう。リゾート地のアンスバタ・ビーチを経由。丘に向かう。丘からはサンゴ礁の島がいくつも見えて美しい。ウィントロの丘はヌーメア随一の観光スポットらしく、多くの観光バス、観光バス・トレインが沢山来ている。1200過ぎ帰船。食事後休憩。1300過ぎから再び下船上陸。ショッピングと市内探訪に。しかし、熱帯地方の夏とあって、結構暑い。1500過ぎ本船に逃げ帰った。1715からの出航祝のセレモニーは盛り上がるが、入港時に迎えてくれた「民族楽器と踊りとの見送り」がなかったのは残念。
埠頭の隣には「TE SUBCOM CONNECTIVTY RELIANCE」と言う船種不明の船が停泊していた。海洋観測船の類か? 隣の湾にはシドニーのハーバーブリッジ横に停泊していたExplorer Of the Seasが停泊していた。同じく今朝入港。ニュージーランドでは見かけなかった。どういうルートでヌーメアに来たのだろうか?
2月25日
0601のご来光を観測。水平線上に雲があり、日の出は少し遅れた。
終日航海。熱帯地方に近づき、大分蒸し暑くなってきた。ストレッチ、ダンス教室。ブリッジ教室。
2月26日
今日の日の出も水平線上の厚い雲に邪魔されて、不発。上空には雲はないというのに。
1800~2000 11階のプールデッキで飛鳥IIの12回目の誕生日を祝うバースデー・デッキ・ディナー。12回目の誕生日と言うのは2006年にクリスタル・ハーモニーを改装して日本船籍(国籍証書)を取得し、飛鳥IIとした日と言うことか。堤船長は第12代目と言うから、それも符合して目出度さも倍増と言うことだ。
プールデッキでのディナーと一連のセレモニーは乗組員、乗客が入り乱れて乱舞し、盛り上がった。三遊亭金時師匠も席に来て写真に納まった。
2月27日
アレクサンドル・デュマ「モンテクリスト伯」7巻を読了。翻訳が若干古く、字が小さく、最初登場人物の役割がつかめず、読むのに苦労したが、央を過ぎてからは、一気呵成に読めた。子供の時、「巌窟王」と言う児童向けの翻案本を読み、主人公エドモンド・ダンテスは自分を無実の罪で、イフ島の牢獄に14年も放り込まれたが、脱獄に成功し、自分を無実の罪に陥れた人たちを次々に復讐していく痛快さに心躍らせた記憶はあるが、細かい筋はほとんど覚えていない。この大部の書を児童向けにどのように料理して、書き換えたのか、不思議な気がする。
2月28日
本日終日航海。朝雨。ご来光も、夕日落日も不発。1700過ぎ赤道を通過し、北半球に入る。ジョージ・オーウェル「1984年」を読み始める。下船までに読み切れるか?
3月1日
午前中0900~1000ブリッジ(操舵室)見学会。
1000~1045「ジャンケンリレータイム」1100~1145「イカ蹴とばしタイム」に参加。他愛無いゲームだが、結構楽しめた。10(5ⅹ2)アスカドルを獲得。
1300~1345小川エンタテイメント・ディレクターの「タイタニックの真実(なぞ)」の話。結構面白かった。タイタニックと飛鳥はほぼ同じ大きさ。タイタニックの1等船客の英国/ニューヨーク間の運賃は1日当たり80万円。3等船客のそれは5000~2万円だったという。
夕食で隣席の夫婦。エアーズロックに行ってきたという。「飛鳥のケアンズ/シドニー間の航海を放棄し、A$988(約100万円)もするオプショナル・ツアーに参加する人とはどんな人種か」と疑問に思っていたが、大阪で印刷業を経営していたが、姪に事業を譲り、現在は相談役、老人ホームに入り、世界一周にも乗ったという。お金には困らない身分と言えるのだろう。国民学校入学・卒業と言うから、85歳以上と言うことだろう。優雅な身分と言うことになろう。主として商品のラベル(醤油瓶のラベルとか)の印刷を引き受けていたので、安定した商売だと言えるようだ。
3月2日
本日、終日航海。1000~1045カローリング(カーリングの船上デッキ版)大会に参加。1500~1545輪投げ大会に参加。わがチームは2位。30アスカドルを獲得。
夜はトロピカル・カジノ大会。ルーレットで持ち点をすってしまった。残念。
今日家内が耳にしてきた話。ある老人女性はこのオセアニア・クルーズの後、3月末からの世界一周クルーズに参加すると言う。荷物はこのまま郵船クルーズに預けっぱなしと言う。これも驚きだ。「よくやるよ」と言う感じ
【恋人たちの聖地-グアム】
20:42 2018/03/03
0800最後の寄港地グアムに入港。早速午前の部の「グアム半日車窓観光」に参加する。先ずアグエダ砦に行き、ハガニアの街(グアムの政治行政の中心)を見下ろし、スペイン広場を車窓観光。19世紀末の米西戦争までグアムはスペイン領だったことを知った。メキシコ・フィリピン貿易路を守備する拠点だったという。次に恋人岬に行く。恋人岬は悲恋の若い二人が身を投げた断崖絶壁の地。恋愛成就、新婚の前途幸福を願うハート形の絵馬がぎっしりフェンスにぶら下がっているのは見事。湯島天神の合格祈願絵馬を上回る数かも知れない。それはみんな日本人の仕業だろう。昨今、中国人、韓国からの観光客も増えているようだが、そのような書き込みは見られなかった。観光バスを観光土産物ショッピングの中心:タモンで観光バスを途中下車。Tギャレリアの前にあるJCBラウンジに駆け込み、早速WiFiを利用させてもらい、孫のI君のI高校合格を知る。「おめでとう」を発信。TギャレリアとABCマートで土産物を買いたし、1420頃帰船。冷やしウドンの昼食。1645からの出港セレモニーには地元少年、少女の民族舞踊の見送りが見られ、プロムナード・デッキは盛り上がる。
【さらば飛鳥よ、また来るまでは】
3月4日
本日も終日航海。1100~1145 12階スカイデッキでのパットゴルフ・タイムに参加。風が強く、船の揺れもあって、ボールが打った場所よりも遠いところまで戻ってしまう状況で、散々なスコアだった。
1915~19305階アスカプラザ(ホール)でアスカコーラス教室の発表会で第九の合唱披露。家内が出演。結構沢山の観客でにぎあう。
3月5日
1000~1045 シャッフルボード・ゲームに参加。1430~1600 ブリッジ教室最終回。なんとなくコントラクトブリッジの全貌がつかめたという感じ。
1900~1945船長フェアウェル・パーティー。乗組員が総出で出演する記念のショウはなかなか力が入っていた。本日は最後のフォーマル・ディナー。
1700頃 小笠原諸島の父島通過時、携帯の電波が繋がり、ネット接続出来た。ラインで家族に明後日横浜帰着を伝える。
3月6日
本日、最後の終日航海日。明日0900には横浜入港だ。
1000~1045最後のビンゴゲームに参加。それが終わって、本格的な下船荷物のパッキングに取り掛かるや否や、本船は寒冷前線の真っ只中に突入。本船の動揺激しく、波しぶきが8階、9階まで吹き上がる始末。パッキングに意気込んでいた家内はいささかグロキー。手荒い帰国歓迎に見舞われ感じだ。下船時には治まっていると良いのだが。
3月7日
0530頃眼が覚めて、窓の外を見たら既に右舷側に町の灯が見える。どうも館山辺りらしい。0600過ぎ風呂に行ったら浦賀の発電所の煙突が見える。左手に城ヶ島が見える。いよいよ帰って来たなとの感慨。0800頃ベイブリッジを通過。0900予定通り客船バースに着岸。39日間もの長期航海が終わった。1100頃下船。入国手続きは本船側で一括してやってくれ、荷物も既にカート2台に乗せられており、税関検査までは本船側のポーターがカートを運んでくれ、税関からは代理店の社員がクロネコヤマトの窓口まで運んでくれる。全くスムーズ、苦労はいらない。桜木町までのシャトルバスに乗り込み、1200過ぎの横浜線快速で町田経由新百合ヶ丘に1240着。新百合ヶ丘で買い物を済ませ、1400頃帰宅。東京は最高気温8.3℃とまだまだ冬の寒さだ。熱帯の暖かになれた身体には堪える。
帰宅後郵便物の整理など。
【39日間の大航海を終えて】
今回のクルーズは39日間、飛鳥クルーズが催行するクルーズは百日を超える世界一周クルーズに次ぎ、二番目に長い航海である。
実は小生にとって、一週間を超えるクルーズは二回目である。前回は2013年5月6日から23日までの18日間、パナマ運河経由ロスアンゼルス~ニューヨークの航海に乗船したことがある。
それは飛鳥IIの全くの同型姉妹船の「クリスタル・シンフォニー」で、主として米国市場で主として米国人をターゲットに営業している船で、オーストラリア人、中南米、欧州、オーストラリアの人々と若干の日本人が乗船する国際色豊かなクルーズ船である。
このクルーズを終えた後、その想い出を記録した航海日誌に下記のような感想を記録している。
「本船はクイーン・エリザベスII と並ぶ、ラグジュアリー・クラス との評価を受けている船だけに、それ程けばけばしくはないが、落ち着いた豪華さは中々のもの。以前に乗船したMSCの地中海クルーズのカジュアル船に比べると、万事に余裕があり、ゆとりのある船内生活を楽しめた。かなりの乗客がリピーターと言うのも肯ける。平均年齢は75歳を優に超えていたのではなかろうか? 車椅子の乗客、歩行器に頼る乗客も多数見られた」と。
同じ設計図を基に建造した船であるだけに、乗船した途端に何となく自宅に帰って来た感じで、船内の様子など全く違和感はなかった。また乗客層についての印象もあまり変わらないが、年齢層は飛鳥の方がかなり高齢だったように思える。腰の曲がった人、杖をついた人、歩行器に頼る人も多く、車椅子で移動する人も多かった。
リピーター比率も飛鳥の方が高かったのではないか。本文中にも記したが、同席して話した人の殆どがリーピーターで、世界一周、アジア、オセアニアの大航海に何度も参加したったのには正直驚いた。
野村総研の調査(2016年)によれば、金融資産5億円以上を有する超富裕層は7万5000世帯、1~5億円の富裕層は114万世帯で、それぞれ総世帯数5290万世帯の5%、14%に相当する。
都度数百万円の支出を伴うこれらのグランド・クルーズに何の躊躇いもなく何度も参加できる人たちはこの超富裕層と富裕層の精々10%弱の上層部と言うことになるのだろうか? しかし、最上位10%の富裕層と推定される割には、如何にも貴婦人然としてお高く留まっている人や、見るからにお金持ちという紳士淑女がゴロゴロと言う風には見かけなかった。ごく普通の小父さん、小母さん、お爺さん、お婆さんと言う感じの人たちばかりだ。かつて日本は1億層中流社会と言われたが、その後経済経済格差が進んだだけで、日本は階級社会の歴史が浅く、富裕層と言うのは所詮底が浅い成り上がり者に過ぎないということだろうか?
けれどもマーケティング的には金融資産5000万~1億円の準富裕層準富裕層(総世帯数の17%)にウイングを延ばさなければ、やがて客層がじり貧に陥るのではないかと危惧される。しかし、日本近辺にはカリブ海、地中海などと言うような海象が穏やかで随所に観光地が点在する地理環境に恵まれず、5年前乗船したパナマ運河クルーズのような比較的リーズナブルな料金の2週間前後のスケジュールを組みにくいのが弱い処かも知れない。
クルーズ中、社交ダンス教室は途中で挫折したが、コントラクトブリッジ教室は最後まで挑戦しつづけることが出来、初級クラスを卒業できた。クラスを終えるにあたって、講師を務められた沖谷邦先生(NHK文化センターの青山教室講師)『ブリッジの魅力は①理に適ったゲームであること、②素敵な友達ができること、を挙げられて、ブリッジで「鍛えられた知力は簡単には衰えない」』と言うメッセージを「はなむけ」とされた。
このメッセージはコントラクトブリッジに限らず、クルーズ・ライフ全体に通じることではないだろうか?
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