日本海軍は何故過ったか―海軍反省会四〇〇時間の証言より」読後感
これは主として海軍軍令部にいたエリートの海軍軍人たちが戦後35年を経て密かに集まり「海軍反省会」なるものがひらかれ、その会の記録が録音テープに残された。その長さ400時間。それお聞きつけたかい作家、大和ミュージアム館長の澤地久枝、半藤一利、戸高一成の3人がNHK番組として鼎談した時の記録である。
そこには海軍トップエリートたちの実像や、戦争突入の実際の経緯などが生々しく語られている。勝算もないまま、なぜ日本は戦争に突き進んでいったのか? など反省会の肉声の証言がもたらす衝撃をめぐって白熱の議論が展開された。
<海軍と言う組織>
海軍は陸軍ほどの対立ではないけれども、海軍軍縮条約への対応巡って、艦隊派と条約派の対立があった。艦隊派は軍令部に、条約派は海軍省に多かった。海軍では軍政を担う海軍省が圧倒的に強かった。海軍省には優秀な、国際的にも視野の広い、よく勉強する軍政家たちが条約派で、伏見宮を軍令部総長に押し上げた軍令部の勢力が優勢となり、条約派の優秀な軍政家が次々と首を切られてしまう。
伏見宮を押し立てた軍令部がもともと海軍省、海軍大臣が握っていた編成権を軍令部条例改正という手段で、軍令部に移ってしまう。この軍令部条例が日米衝突の遠因だったのではないか?
軍令部は海軍国防政策委員会をつくり、その下の第一委員会が対米政略を検討した。対米強硬戦略に切り替えることによって、人数的には陸軍の1/7の規模に過ぎない海軍に陸軍と同じ規模の軍事予算を獲得した。
<海軍はなぜ過ったのか>
陸軍には永田鉄山がいて総力戦のこと考えていたが、海軍は太平洋戦争の場合も日露戦争の時と同じように、始めた時の戦力で頑張れば、それが消耗するうちに一定の結論が出るのではないかと言う根拠なき願望に頼っていた。
それと海軍には「列外の者発言すべからず」という伝統がある。海軍は船で走るから、艦長、航海長、砲術長など幹部が沢山いる。いろいろな命令があちこちから出たら船がまっすぐ進まない。そこに艦長が戦死した時に次に指揮をとる順番が下の下まで決まっている。所謂ハンモックナンバー(軍令承行令)である。これが「列外の者発言すべからず」の伝統となる。海軍には頭のいい人、良識のある人は沢山いた。この人たちが軍令部で勢力をもった人たちによって連合艦隊など中央から追い出され、外側に行ってしまい。発言を封じられる。
<戦争を後押ししたもの>
日露戦争が終わってから、日本は大国意識を持つようになる。政治家と軍人が大国意識を持ち、軍人が軍備を整える。国民もその雰囲気の中大国意識を持つようになる。陸軍は「50個師団をつくる」という(日露戦時は13個師団)。海軍は陸軍に対抗するために、予算の分捕り合戦に入り込む。陸軍は三国同盟を結びたいから「予算は海軍の希望通りにする」と約束した。海軍はイェスと言う、予算を獲得して、海軍の軍備を拡充すると、いざというとき使えないと言えないし、どこかで刀を抜きたくなる。それを抑えるのが海軍大臣、軍令部総長、政治家のはずだが、二二六事件以来腰が引けてしまう。
陸軍が満州事変から始まる侵略戦争、日露戦争以降の大国意識に基づいて外へ外へ出ていく発展は陸軍が指導している。海軍はそれについて行っただけ、という面はある。
しかし、軍艦はメカニズムで動く特性から、決定が組織がやったことになって、個人の席にが埋没してしまう。しかも組織を守ろうと必死になった。その結果、極東軍事裁判でも絞首刑になった海軍首脳、提督は一人もいない。
海軍が考え出した「特攻攻撃」については組織の決定と言うには余りに重大な責任回避ではないかと思われる。
The comments to this entry are closed.
Comments