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December 14, 2016

白石隆政策研究大学院大学長「海洋アジアvs.大陸アジア」読後感

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 1992年に日本経済研究センターが発表した世界経済予測がある。それによると1990年現在の世界のGDPの地域別シェアは

         1990年   2010年(予測) 2010年(実際) 2018年(予測)
南北アメリカ   29.0% →  26.0%       25.9%     24.9%
アメリカ    26.7% →  23.4% 23.4% 22.3%
欧州        32.9% →  28.7%       25.6% 23.3%
アジア・大洋州  20.9% →  29.4%       28.8% 32.2%
 日本       12.7% →  17.5%        8.6%  6.1%
 中国       1.6% →   2.6% 9.3% 14.2%
であり、これを踏まえ、当時の日本人は「東アジアは近代世界経済史の檜舞台に今初めて登場しようとしている」と興奮し、その主役は日本であると考え、自信を抱ていた。
この予測は趨勢的には間違ってはいない。G7に代表される先進国の地盤が沈下し、新興国が台頭した。つまり、北アメリカ、欧州の地盤沈下とアジア・太平洋の台頭である。ただし、アジア太平洋で伸びたのは日本ではなく、中国だった。
 改革開放政策で中国の経済成長への道を切り開いた鄧小平はソ連崩壊時に「これからは中国が社会主義陣営の盟主になるべきだ」との党内の議論を抑え、「今の中国にはそんな力はない。中国は力を蓄えることに専念する」と言う戦略的選択(「韜光養晦」路線)したが、この予想外の中国の躍進によって、取り敢えず棚上げした大国主義ナショナリズム「中華民族復興の偉大なる夢」実現の為に次々と手を打つようになった。これがアジア・太平洋地域の戦略・安全保障を大きく揺さぶるようになった。
 中国は「九段線」で、南シナ海のほぼ全域を領海と主張し、この海域の島嶼・岩礁の領有権を主張するベトナム、フィリッピン、マレーシア、ブルネイと対立している。またナトウナ諸島周辺の排他的経済水域についてはインドネシアとも対立している。これらの国はそのつい沖合まで中国の領海だと主張されては我慢できないだろう。また東シナ海では尖閣諸島の経済水域・領海を中国の公船が毎日出没・航行している。
 その結果、南シナ海の領有権問題で中国と対立するフィリピン、ベトナム、インドネシアなどをますますアメリカ、日本、オーストラリア、インドなどの連携に追いやってしまった。いまASEAN諸国の大陸部東南アジアと島嶼部東南アジアでは安全保障、経済発展、などにおいて大きく課題が異なりつつある。大陸部東南アジアにはベトナム、ラオス、カンボジア、タイ、ミャンマーがあり、中国の影響が大きくなり、中国周辺の国々である。一方、島嶼部東南アジアはフィリピン、インドネシア、シンガポール、マレーシア、ブルネイで、これらの国々は、太平洋からインド洋にわたる広大な地域において、日本、台湾、フィリピン、インドネシア、インドとユーラシア大陸を囲むように並んでおり、またインドネシアからオーストラリアの島々と縦に繋がり全体として、ちょうどT字のかたちで、インド・太平洋の「背骨」を形成している。その骨格をなすのは日米同盟、米豪同盟を基軸とするハブとスポークスの地域的な安全保障システムである。
 現在のアメリカ中心の国際秩序の基本は主権国家システムで、主権国家間の合意によって条約が締結され、その長期にわたる相互作用の中で、規範、慣行が生まれ、それらを基盤に国際秩序が組み立てられている。これに対して中国の論者は「天下」秩序で国際関係を再構成しようとしているように見える。それは南宋、元、明、清の時代にあった朝貢システムを復活させ、21世紀型の朝貢システムを「天下」の秩序の基盤としようとしているようにみえる。主権国家の形式的平等と自由、公平、透明性の原則が広く受け入れられている国際社会において、中国の台頭によって、それがラディカルに再編され、形式的不平等と序列(ヒエラルキー)を一般原則とする21世紀型朝貢システムが復活することがありうるのだろうか?
 朝貢を迫る中国の元使を鎌倉政府は斬首したし、秀吉は明使を追い返した。上ビルマの王も元使を処刑した。仮に中国が「自分たちは大国だ」と思っても、他の国々が「だから、なんだ」と考えているところでは、天下の秩序は結局大国主義と札束外交に堕してしまう。2010年ハノイでのARF会合で南シナ海の行動を非難された中国の楊外相は「小国がなにを言うか、中国はここにいるどの国よりも大きい」と言った。また、中国政府は李克強首相とエリザベス女王との会見を要求し、2.4兆円規模の商談をまとめたという。そこに見えるのは「我々は大国だ、小国は黙っていろ、黙って、我々の言うことを聞けば、所詮、金目だ、そこを面倒見てやる」と言うことであろう。しかし、こういう大国主義と札束外交では中国中心の国際秩序は作れない。「所詮、金目でしょう」と思っていると、結局、金の切目が縁の切れ目になってしまう。中国の外交・安全保障戦略は極めて狭い国益観念に根差した、近視眼的なものでしかない。そういう自己中心的な近視眼的な行動が世界システムを混乱に陥れ。年々それが激しくなっている。中国と国境を接し、生殺与奪の権を握られているベトナム、ラオス、カンボジア、ミャンマーの大陸部東南アジアと従えることはできても、島嶼部東南アジアの共感は得られないであろう。
 しからば日本のGrand Strategyは如何描けばよいのか? 戦後日本の繁栄を支えてきたものは国際的には「アメリカの平和」「ドル本位・WTO通商体制」であり、国内的には「自由民主主義」「市場経済」であったのは疑う余地がない。中国が「富国強軍」の論理的帰結として、「アメリカの平和」に正面から挑戦するようになれば、日本としてもこれに対応せざる得ないであろう。「自分だけよければ」といって、「虫の良い生き方」を続けるのではなく、戦後日本がその下で平和と安定と繁栄を享受して来た自由主義的国際秩序を守り、発展させるのに応分の寄与ををすべきであり、そういう合意ができつつある。と言うのが本書の結論である。
 吉田ドクトリンを提唱し、戦後日本のGrand Strategyを描いた吉田茂首相は1960年代にこのドクトリンに疑問を抱くようになったという。「世界の一流に伍するに至った独立国家日本」が「自己防衛」において、何時までも「他国依存が改まらないこと」「「国連の一員としてその恵沢を期待しながら、国連の平和維持活動の機構に対しては、手を貸そうとしない」こと、これは「身勝手の沙汰、所謂虫のよい生き方とせねばなるまい」と言っていたという。これは初耳であった。
 東南アジア各国の各論では、「インドネシアの民主主義が4年間、毎年のように憲法を改正し、「弱い大統領」と「強い議会」を特徴とする大統領制民主主義ができあがり、民主化が定着しようとしている。また、地方自治、地方首長公選制も導入され、中央政府から34%もの一般分配金が交付され、地方自治が強化され、しかも地方自治体の新設が非常に容易になったこともあって、多民族国家インドネシアの民族アイデンティティ問題が地方政治に封じ込められるようなり、マルク、ポソの宗教紛争、アチェの内戦などもうまく地方に封じ込めることに成功したという。これも初耳である。

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December 13, 2016

エドワード・ルトワック「中国4.0―暴走する中国」読後感

 本書のテーマは中国の対外戦略の分析と、それに対して日本のとるべき政策の提言である。その手法は「戦略論の逆説的論理」を鮮やかに駆使したものである。
 
<戦略的に成功したChina1.0>
 1987年に毛沢東がなくなり、建国→文革と吹き荒れた恐怖政治が終わり、鄧小平が経済を開放したが、1989年に天安門事件を引き起こした。その鄧小平も1997年に死んで、中国は2000年代に入り、とうとうChina1.0とも言うべき新しい姿で国際社会に登場した。これが平和的台頭である。
 この平和的台頭に込められていた北京のメッセージは非常に明確なものであった。それは「中国はさらに豊かになり、さらに近代化し、その経済規模は日本を越えて、何時の日にかアメリカに迫る」というものであった。
 ところが同時に別のメッセージも込められていた。それは「どの国も中国経済の台頭を恐れたり、反発したりする必要はない。何故なら中国の台頭は完全に平和的なものであり、既存の権力構造を変化させず、国際ルールにも従うからだ」。諸外国に独自の経済ルールを押し付けるようなことは考えておらず、GATTにも参加するし、国際法も順守する。私有財産権や知的財産権、著作権などを定めた国際法にも従うとした。

<China2.0 ―対外強硬路線への転換>
 このChina1.0は鄧小平の遺訓:爪を隠し、才能を覆い隠し、時期を待つ戦術「韜光養晦」路線に従ったものだが、2009年1月に米国から戦後最大の国際金融危機が発生し、世界経済の構造が変化し始めた。それを見て中国人は舞い上がってしまった。中国が経済力で世界一になるのは「25年かかる」と思われていたのが、「あと10年しかかからない」と思い込んでしまった。そして三つの大きな間違いを犯してしまった。
①第一の錯誤―「金は力なり」
 まず、経済力と国力の関係を見誤った。「小国のところまで出向いて行って金を渡せば、相手は黙る」と言う勘違いである。「経済の規模と国力との間にはリニアな関係性がある」と思い込んだ。しかし、歴史の事実はそれほど単純ではない。
 例えば英国の経済的なピークは1860年代であったと言われ、1890年代までにはその優位をほぼ失っていた。しかし英国は二つの世界大戦で勝者となった。経済力と国力の間には「先行」と「遅れ」が存在する。英国は1890年代に既に経済力を落とし始めていたが、1945年、更には1970年代まで絶対的な影響力を誇っていた。
 豊富に資金を与えることによってミャンマーは黙るはず、アメリカも日本も中国の大規模なマーケットをちらつかせれば態度を変えるだろうと見誤っている。
 リーマンショックは世界経済の大惨事であっても、中国が先進国のレベルに追い付くには今後50年以上かかる。中国がアメリカの軍事的レベルに追い付くには最速でも20年はかかる。
②第二の錯誤―線的な予測
 2008年に米国経済が急降下して、その状態が2009年まで続いたため、中国のリーダーたちが経済学入門コースの学生のような間違いを犯してしまった。その間違いとは線的予測(linear Projection)である。リーマンショック当時の予測は2008年から2018年まで「アメリカ経済成長率低下続き、中国の経済成長の高止まりが続く」というものであった。線的予測には二つの特徴がある。その結末が簡単に予測しやすい。しかし、ローマ帝国が誕生して以来、経済活動では全く同じ状態が5年から7年続くということはなかった。
 そのような錯覚を抱かしめたのはゴールドマンサックスなどの金融企業である。BRICSという幻想もその一環である。それはセールス・トークであり、これらの国々への投資案件を積極的売り込む手段であったに過ぎない。その結果、初心な中国人に”China up,US down"と言う幻想を抱かせてしまった。
③第三の錯誤―大国は二国間関係をもてない
 最後の錯誤は他国との「二国間関係」を持つことができると思い込んでしまった。中国が弱小国であればそれは出来る。フィリピン、ベトナムに対しても、二国関係として個別に対応できる。 
 ところが中国が強力になり始めた途端に、それは単なる「二国間」にはならなくなる。中国がベトナムと外交的に揉め事を起こせば、ベトナム側を助けようとする国が出てくる。「次は自分の番になるかも知れない」と考えた他国が「もしそうなら次にターゲットになる前にベトナムを助けておこう」と思うからだ。第三国のインドもベトナムの潜水艦乗組員の訓練施設を提供するなどの支援を始めた。

<China3.0―選択的攻撃>
 2014年の秋になって、中国は「チャイナ2.0」が完全な間違いであることに気が付いた。太平洋を中心とする地域に「反中同盟」が結成されてきたからである。そこで、「チャイナ2.0」をやめて、新たに「チャイナ3.0」を始めた。それは「選択的攻撃」で、抵抗のない処では攻撃的に出て、抵抗があれば止めるという行動である。その餌食になったのはフィリピンである。日本、ベトナム、さらにはインドに対して、攻撃を控え始めた。しかし、スリランカへの基地設置などはインドにとって許しがたい行為である。「チャイナ2.0」よりはましだが、「チャイナ1.0」よりははるかに受け入れがたい。

<なぜ国家は戦略を誤るのか?―G2論の破綻>
 世界に大きな影響を及ぼすような巨大な間違いはそれなり高い水準の社会や技術を持った国でないと犯しようがない。
①日本の戦略的誤り―1941年
 そもそも日本以外の他国が真珠湾攻撃を行おうとしても軍事的に失敗したはずである。日本はこの難しい作戦を成功させた。しかし、この真珠湾攻撃は戦術的に成功したが、戦略的に失敗した。この作戦に失敗していれば、ルーズベルトは対日戦ために軍を動員できなかったし、太平洋戦争も起らなかった。広島、長崎に原爆は落とされなかったはずだ。 真珠湾攻撃の翌朝に日本が取りうる最高の戦略は「無条件降伏」だったかもしれない。 日本の軍部が間違いを起こした根本原因は「現実には存在しないアメリカ」を「発明」したことである。「真珠湾にある軍艦を失っても何も反応せず、日本に見向きもしない。その間に日本はオランダ領インドネシアを攻撃して石油を確保できる」という想定である。
②アメリカの戦略的誤り―2003年
 2003年、アフガニスタンでアルカイダ掃討の肩透かしを食ったアメリカは、そのフラストレーションを晴らすべく、目標をイラクに転じた。2003年にアメリカはイラクに侵攻したが、それに用いた兵力は小規模で、50万に過ぎなかった。
 小規模で十分と判断したのは「民主主義を待ち望んでいるイラク人」と言う存在を発明したのだ。サダム・フセインと言う存在さえ取り除けば、民主主義を待ち望んでいる国民によってイラクの民主化が進み、幸せ訪れるはずだ。しかしイラクの国内事情はシーア派とスンニ派の宗派対立、クルド人の民族独立への野望が渦巻き、収拾がつかくなってしまった。
③中国の戦略的誤り 
 中国は(A)カネと権力の混同、(B)線的予測の錯誤、(C)二国間関係の錯誤 という3つの錯誤を犯しているが、さらに中国の「天下」と言うシステム―中国が大国であることを周辺の小国が認めるという世界観―この錯誤をさらに大きくしている。
 アヘン戦争から始まる「百年国辱」を晴らし、「偉大なる中国民族の復活させる」というスローガンが横行するようになった。 
 それは冷静な考え方が最も必要な瞬間に、突然の感情の激流―Strum und Drung―に襲われて、最適な戦略であるのChina4.0への転換を凡そ実行不能なものとしてしまっている。そのためには習近平が対外政策において、次の二つを実行する必要がある。①「九段線」若しくは「牛の舌」のかたちで知られる地図を引っ込め、南シナ海の領有権の主張を放棄すること、②空母の建造を中止すること。これらにより、インドネシア、マレーシア、ブルネイとの領有権問題を解消できるし、アメリカの警戒感を解消できる。
 キッシンジャー以外アメリカで信じていないG2=新型大国関係をあたかも3億2000万人のアメリカ国民の総意であると勘違いしているが、それも大胆に最適な戦略への転換を妨げている。
 最後に尖閣問題に対するルトワック先生の提言がある。それは、外務省、海保、海自、空自、陸自が協力して予め「多元的阻止能力」を用意しておくことだという。即ち、最大限の確実性と最小限の暴力をもって「中国の尖閣占拠」を排除すべきである。つまり謂わば積極的な「受動的封じ込め政策」の勧めである。 

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December 09, 2016

日本海軍は何故過ったか―海軍反省会四〇〇時間の証言より」読後感

これは主として海軍軍令部にいたエリートの海軍軍人たちが戦後35年を経て密かに集まり「海軍反省会」なるものがひらかれ、その会の記録が録音テープに残された。その長さ400時間。それお聞きつけたかい作家、大和ミュージアム館長の澤地久枝、半藤一利、戸高一成の3人がNHK番組として鼎談した時の記録である。
そこには海軍トップエリートたちの実像や、戦争突入の実際の経緯などが生々しく語られている。勝算もないまま、なぜ日本は戦争に突き進んでいったのか? など反省会の肉声の証言がもたらす衝撃をめぐって白熱の議論が展開された。

<海軍と言う組織>
海軍は陸軍ほどの対立ではないけれども、海軍軍縮条約への対応巡って、艦隊派と条約派の対立があった。艦隊派は軍令部に、条約派は海軍省に多かった。海軍では軍政を担う海軍省が圧倒的に強かった。海軍省には優秀な、国際的にも視野の広い、よく勉強する軍政家たちが条約派で、伏見宮を軍令部総長に押し上げた軍令部の勢力が優勢となり、条約派の優秀な軍政家が次々と首を切られてしまう。
伏見宮を押し立てた軍令部がもともと海軍省、海軍大臣が握っていた編成権を軍令部条例改正という手段で、軍令部に移ってしまう。この軍令部条例が日米衝突の遠因だったのではないか?
軍令部は海軍国防政策委員会をつくり、その下の第一委員会が対米政略を検討した。対米強硬戦略に切り替えることによって、人数的には陸軍の1/7の規模に過ぎない海軍に陸軍と同じ規模の軍事予算を獲得した。

<海軍はなぜ過ったのか>
陸軍には永田鉄山がいて総力戦のこと考えていたが、海軍は太平洋戦争の場合も日露戦争の時と同じように、始めた時の戦力で頑張れば、それが消耗するうちに一定の結論が出るのではないかと言う根拠なき願望に頼っていた。
それと海軍には「列外の者発言すべからず」という伝統がある。海軍は船で走るから、艦長、航海長、砲術長など幹部が沢山いる。いろいろな命令があちこちから出たら船がまっすぐ進まない。そこに艦長が戦死した時に次に指揮をとる順番が下の下まで決まっている。所謂ハンモックナンバー(軍令承行令)である。これが「列外の者発言すべからず」の伝統となる。海軍には頭のいい人、良識のある人は沢山いた。この人たちが軍令部で勢力をもった人たちによって連合艦隊など中央から追い出され、外側に行ってしまい。発言を封じられる。

<戦争を後押ししたもの>
日露戦争が終わってから、日本は大国意識を持つようになる。政治家と軍人が大国意識を持ち、軍人が軍備を整える。国民もその雰囲気の中大国意識を持つようになる。陸軍は「50個師団をつくる」という(日露戦時は13個師団)。海軍は陸軍に対抗するために、予算の分捕り合戦に入り込む。陸軍は三国同盟を結びたいから「予算は海軍の希望通りにする」と約束した。海軍はイェスと言う、予算を獲得して、海軍の軍備を拡充すると、いざというとき使えないと言えないし、どこかで刀を抜きたくなる。それを抑えるのが海軍大臣、軍令部総長、政治家のはずだが、二二六事件以来腰が引けてしまう。
陸軍が満州事変から始まる侵略戦争、日露戦争以降の大国意識に基づいて外へ外へ出ていく発展は陸軍が指導している。海軍はそれについて行っただけ、という面はある。
しかし、軍艦はメカニズムで動く特性から、決定が組織がやったことになって、個人の席にが埋没してしまう。しかも組織を守ろうと必死になった。その結果、極東軍事裁判でも絞首刑になった海軍首脳、提督は一人もいない。
海軍が考え出した「特攻攻撃」については組織の決定と言うには余りに重大な責任回避ではないかと思われる。

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