森 健「小倉昌男 祈りと経営」読後感
久しぶりに感動をもって読み終えた。著者は1968年生まれ、早大法卒のフリーのライター。この作品は2015年小学館ノンフィクション大賞受賞作。2016年1月30日初版発行。
小倉昌男については日経「私の履歴書」で読んだこともあり、「世界で最初に宅配便と言う物流インフラを作り上げた人物。それは決してハイテクとは言えないけれども、シュンペーターが定義したような「新結合」による極めて革新的な事業開発であり、その過程で運輸省と規制を巡り、行政訴訟を起こすなど、徹底的に闘った闘士。現役引退後には私財24億円を原資に『ヤマト福祉財団』を設立して、障害者が働けるパン屋「スワンベーカリー」を立ち上げるなど、福祉事業で精力的に活動した」と言うくらいのことは漠然と記憶していた。しかし、最晩年には癌治療で余命3カ月と宣告され、酸素吸入が必要な状態で渡米し、カリフォルニア在住の娘さん宅で死去したということまでは知らなかった。
この本には『ヤマト「宅急便の父」が闘っていたもの』と言う副題がついている。小倉氏を晩年、福祉事業に駆り立て、死期迫る中、渡米。娘さん宅で息を引き取ったという劇的な結末に疑問を抱いた著者が、それはいったい何だったのかと解明しようとした書物である。
そこには数多くの小倉氏の著作、「私の履歴書」にも全く書かれていない家庭内の修羅場が晩年「弱き者」のために尽くそうと考えた動機だったのではないかと言う結論に到達する。問題は長女が「境界性パーソナリティ障害」と言う精神病で家庭内で荒れまくり、双葉中学3年の時は一学期間まるまる入院している。その後も病状は好転することなく、母娘の間では激しい言葉の暴力が振るわれただけでなく、母親は「親の育て方が悪いから」と非難されて、母のほうの精神も異常をきたし、キッチンドリンカーになって、そのストレスから心臓病も発症したという。「事業の成功、家庭の敗北」ともいうべき状態だが、小倉氏は家庭内では外での存在感でとはまるで異なり、母娘の諍いにかかわろうとはせず、まるで存在感がなかったという。その娘が黒人の男性と結婚したいと言い始めた時、頂点に達したようだ。世間の目は「小倉家の娘が外人、しかも黒人と結婚などとんでもない」だった。そのような家庭内の諍いが奥様を突然死に追い込んだ遠因だったのではないかという。
しかし、最晩年はカリフォルニアの娘さん宅で、4人の混血の孫たちにまといつかれながら、酸素吸入器の操作など面倒を見てもらって、幸せな生活を送り、眠るように最後を迎えたという。
読後「終わりよければ、すべてよし」(シェークスピア)や「最後によく笑うものは、遂によく笑うも煮である」(マルクス)と言う言葉を思い出した。
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