« May 2016 | Main | December 2016 »

August 26, 2016

伊東光晴京大名誉教授「ガルブレイス―アメリカ資本主義との格闘」読後感

 伊東教授は東京商科大卒、東京外大教授、後に京大教授となった。
 この書物はかつてケインズを論ずることによってイギリス論を、シュンペーターを借りてドイツ社会を論じて来た著者がガルブレイスを論じることによって、アメリカ思想の二極対立をえぐろうとした社会経済思想史研究の完結編で、心肺停止の病をおして筆を進めた渾身の作と言う。
 トランプ・サンダーズ現象が吹き荒れる今日のアメリカは、1933年のNew Deal政策、1950年代の非米活動委員会の嵐と同様に、歴史の転換点に立っていることを予感させる。20世紀を代表する経済学の巨人:ガルブレイスが何と闘い続けたかを解明したこの書物は時宜を得ていて、極めて示唆に富む。スコットランドの移民の子で、農業経済学からスタートしたガルブレイスはFact Findingを徹底的に重視するプラグマティストで、それまでの通念(conventional wisedom)に挑戦し、資本主義は変わったのだという現実を析出して見せた。
 即ち巨大企業体制の下では、完全競争下で理論上でのみ成立する需要曲線と供給曲線の交点で価格と生産量が決定されるということはあり得ない。「ゆたかな社会」が実現していくにつれて、生存に必要な基本的な需要は充たされていき、必需度の低いものへと消費支出をシフトさせていく。このような状況下では消費者の欲望は与件ではなく、マスプロ、マスコミ、マスセールの体制下にあって、大企業の広告・宣伝活動によって、操作される対象になってしまう。これがガルブレイスの言う依存効果である。かくして空腹に代表される物質的窮乏に代わって、「買っても買っても充たされない」精神的窮乏と言う貧困が始まる。
 「ゆたかな社会」では利潤を生む市場経済を通じて供給される財にはふんだんに資金が回るが、政府の公共のための活動には資金が回らない。道路、地下鉄建設、空気汚染対策、ゴミ処理、保育所など財源が不足する。
 公共サービス部門のためには、私的財の増加に比例して増える売上税を設置するほかない。これは逆累進で貧しい人たちに重課するものと言う考えは、貧しい時代の通念であるという。「ゆたかな社会」では売上税で税収を確保し、社会福祉をはじめとする公共福祉サービスを増加させ、すべての人に等しく普遍的に公共サービスを供給することによって貧困を無くし、すべての人が安心して生活できる社会を作るべきだという。市場中心のアメリカ社会を、今日の北欧の福祉社会に変えようという考えである。消費税に強硬に反対する旧社会党、共産党は全く見当違いで、福祉を重視すべき社会主義政党の名に値しない保守反動政党だということになり兼ねない。
 巨大企業が支配する工業製品生産では①市場を無効にし(垂直的統合・合併などによって)、②市場を販売者または購入者としてコントロールし、③市場の機能を停止させる(長期継続的契約)によって、市場を支配下に置いている。このメカニズムを動かしているのは大企業の専門家組織(テクノストラクチャー)である。決して主流派経済学の教科書が前提としているような消費者主権が機能している訳ではない。
 これに対して、この大企業体制の外側にある産業―農業、個人営業、サービス業では「市場体制」が機能しているかと言うと、そうではない。そこで見られるのは「自己搾取(Self exploitation)」である。自己搾取は限りない自己努力であり、勤勉である。それを端的に表すのが、労働供給曲線のの見方の違いである。主流派経済学=新古典派総合の標準教科書の前提とする労働供給曲線は右上がり―賃金が下がれば労働供給量が減る―だが、マーシャルのそれは右下がり―賃金が下がれば供給量が増える―である。つまり、賃金が下がれば、これまで通り収入額が欲しいと、長時間働くようになる。長時間働けないような場合には、一家の別の人が働かざるを得なくなる。労働供給量の増加が止まるのは長時間労働による労働者の生活の崩壊によってである。新古典派総合の近代経済学は何故マーシャル理論を引き継がなかったのか? また農業、サービス業などの個人営業も身をすり減らす自己努力=勤勉による競争を強いられている。この「自己搾取」による生活の崩壊を防ぐには労働組合が力を取り戻し、拮抗力(対抗力)=countervailing powerを発揮するほかないし、最低賃金、不況カルテル、参入規制、、農産物作付け規制、輸入数量規制など政治の介入が必要である。
 レーガン・サッチャー政権下では、ニューディールの成果を逆転するような高所得者優遇税制、反労働組合政策、福祉政策に代わって、自己責任を強調する政策がとられた。日本で持て囃された小泉=竹中の規制緩和、改革路線はその亜流に過ぎない。
 戦後の早い時期に出版された「現代の資本主義」の著者、英労働党の論客ストレイチーは「経済は悪を生み、政治はそれを正す善である」と述べているが、レーガン・サッチャーは「経済の悪を正す」どころか、逆に「経済の悪を助長」させてしまった。その最たるものは1929年の大恐慌の反省から生まれた「金融業と証券業の分離」を定めたグラス・スティーガル法を廃止である。これによって金融自由化=ビッグバンを進めたことが世界を大不況に叩き込んだリーマン・ショックであった。
 それにもかかわらず、政権経済財政政策首脳が回転ドアのように、財務省・FRBとウォール街を行き来する構造―バグワッティ・コロンビア大教授によると、今やアイゼンハワー大統領が指摘した軍産複合体なみの「ウォール街=財務省複合体」が成立していると言う―はリベラル派と言われるオバマ政権下でも健在であるように見える。
 しかし、「ウォール街=財務省複合体」=Establishmentへの反感から巻き起こった共和党内で一時猖獗したTea Party(Tax Enough Alreay)やトランプ候補の支離滅裂な政策は役に立たないことは明らかである。クリントンの不人気もウォール街との近さに疑惑をもたれているからであろう。むしろサンダーズ候補がアメリカの現在の病巣を鋭く認識していたように思われる。今回の米大統領選挙における混乱はレーガン路線が生みだした格差の拡大、とどまるところを知らない貧困層の増大(特に低学歴白人高齢層の)と言う社会を分断しかねない問題に既成政治家たち(Establishment)が何一つ有効な解決策を提示しえなかった結果であろう。
 また米国では初等教育の地域間格差が大問題となっているが、日本ではナショナル・ミニマムの行政サービスを受けられるようにする基盤として、シャープ勧告による戦後の税制改革で地方交付税制度が導入されており、地域間格差の緩和に寄与している。この地方交付税制度は「シャウプの芸術」と言われているが、実は一橋大学の井藤半弥教授の入れ知恵だったと言う。こんな事実があったとは全く初耳であった。
 今日のアメリカの問題を理解するためにも熟読に値する書物である。


| | Comments (0) | TrackBack (0)

森 健「小倉昌男 祈りと経営」読後感

 久しぶりに感動をもって読み終えた。著者は1968年生まれ、早大法卒のフリーのライター。この作品は2015年小学館ノンフィクション大賞受賞作。2016年1月30日初版発行。
 小倉昌男については日経「私の履歴書」で読んだこともあり、「世界で最初に宅配便と言う物流インフラを作り上げた人物。それは決してハイテクとは言えないけれども、シュンペーターが定義したような「新結合」による極めて革新的な事業開発であり、その過程で運輸省と規制を巡り、行政訴訟を起こすなど、徹底的に闘った闘士。現役引退後には私財24億円を原資に『ヤマト福祉財団』を設立して、障害者が働けるパン屋「スワンベーカリー」を立ち上げるなど、福祉事業で精力的に活動した」と言うくらいのことは漠然と記憶していた。しかし、最晩年には癌治療で余命3カ月と宣告され、酸素吸入が必要な状態で渡米し、カリフォルニア在住の娘さん宅で死去したということまでは知らなかった。
 この本には『ヤマト「宅急便の父」が闘っていたもの』と言う副題がついている。小倉氏を晩年、福祉事業に駆り立て、死期迫る中、渡米。娘さん宅で息を引き取ったという劇的な結末に疑問を抱いた著者が、それはいったい何だったのかと解明しようとした書物である。
 そこには数多くの小倉氏の著作、「私の履歴書」にも全く書かれていない家庭内の修羅場が晩年「弱き者」のために尽くそうと考えた動機だったのではないかと言う結論に到達する。問題は長女が「境界性パーソナリティ障害」と言う精神病で家庭内で荒れまくり、双葉中学3年の時は一学期間まるまる入院している。その後も病状は好転することなく、母娘の間では激しい言葉の暴力が振るわれただけでなく、母親は「親の育て方が悪いから」と非難されて、母のほうの精神も異常をきたし、キッチンドリンカーになって、そのストレスから心臓病も発症したという。「事業の成功、家庭の敗北」ともいうべき状態だが、小倉氏は家庭内では外での存在感でとはまるで異なり、母娘の諍いにかかわろうとはせず、まるで存在感がなかったという。その娘が黒人の男性と結婚したいと言い始めた時、頂点に達したようだ。世間の目は「小倉家の娘が外人、しかも黒人と結婚などとんでもない」だった。そのような家庭内の諍いが奥様を突然死に追い込んだ遠因だったのではないかという。
 しかし、最晩年はカリフォルニアの娘さん宅で、4人の混血の孫たちにまといつかれながら、酸素吸入器の操作など面倒を見てもらって、幸せな生活を送り、眠るように最後を迎えたという。
 読後「終わりよければ、すべてよし」(シェークスピア)や「最後によく笑うものは、遂によく笑うも煮である」(マルクス)と言う言葉を思い出した。 

| | Comments (0) | TrackBack (0)

« May 2016 | Main | December 2016 »