「香港―中国と向き合う自由都市」読後感
最近、倉田徹立教大准教授・張Yuk Man香港中文大講師「香港―中国と向き合う自由都市」を読み終えた。
香港には多分1973年、最初に足を踏み入れて以来、数回訪れたことがあるが、最初は九龍半島側は1997年までの99年間の租借地だが、香港島のほうは英国に割譲された植民地で、条約上は何時までも英国領のままにしておくことは可能だが、対岸の九龍半島と一体になって、有機的に経済社会が形成されているのだから(水、エネルギーや生活物資の供給など、慶徳空港も九龍側であった))、99年の租借期間満了後も、英国が香港島植民地を保持し続けることはできないのではないか言う問題意識しかない時期だった。
1984年12月に中英交渉がまとまり、1997年7月1日の香港返還が決まった。一国二制度が合意され、50年間は香港の現行体制・高度の自治が維持されるとの合意はあるものの、それは単なるモラトリアムに過ぎず、早晩共産党政権が全政府部門を制御し、地民軍が闊歩し、公平な法治よりも腐敗や政治的なコネがものを言うようになり、国際的な商業・金融のハブとしての役割はなくなる。街は西欧的清潔的さを失い、間違いなく汚くなるだろうと誰もが思ったに違いない。
植民地時代のイギリスによる支配は典型的な植民地統治のシステムで宗主国が強権をふるう独裁体制であったが、圧倒的多数を占める華人社会へ干渉を避け、政治化を避けることで安定を保とうとした。その自律的な官僚統治によって、香港の政治は脱イデオロギー化し、経済の繁栄と社会の安定が優先された。
植民地統治は強権的統治でであるが、強力な権力が存在するからこそ、放任された社会にも一定の秩序が保たれ、それによって自由な空間が出現した。大陸からの避難民たちは情報の自由を用い、命を繋ぐための仕事を見つけ、「生存する自由」が与えられた。さらに難民たちは「儲ける自由」を使った。それは英国人が育てた香港の自由貿易港制度や、国際ネットワーク、法制度、金融システムによって支えられた。わずかな資本、友人・親戚からの支援があれば、人々は様々な商売を行って、瞬く間に富を蓄えるチャンスがあった。
2014年秋、中国政府による勝手な解釈改憲で2017年の行政長官改選にあたって、新北京派のみを予め候補者として選ぶニセ普通選挙を実施すること決めたことに対して、香港市民の多数を巻き込み、長期間香港主要地区を占拠する雨傘運動デモに発展した。このような生活に根ざした「自己決定の自由」に慣れ親しんだ香港人にとって、2012年の愛国教育運動=国民洗脳教育の続く、ニセ普選による行政長官選出は香港の「自己決定の自由」が侵害されると感じたのであろう。それにしても徹底的に無抵抗主義を貫き、占拠地にむしろ牧歌的な生活空間を作り出したという運動は、悲壮感がなく、大多数の香港市民の共感を勝ち取って、香港官憲もその裏にいる中国共産党も手を出せなったという事態の推移には注目される。犠牲者を出した1980年の韓国の光州事件や1989年の天安門事件などとは違う抗議活動を楽しむ明るさに驚嘆した。「中国と向き合う自由都市:香港」の強かさに喝采である。
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