防衛大学校キャンパス探訪記
今週の初め、猪木ゼミ有志と横須賀の観音崎に近い走水の小原台にある防衛大学校の見学会「防大ツアー」に参加した。
以下その印象を記して、諸兄のご参考に供す。
<京大猪木ゼミと防大の因縁>
猪木先生は昭和47年夏に当時の中曽根防衛庁長官からの三顧の礼を断り切れず(当時先生は弟子の五百旗頭さんなどに「化け物が来た」と表現された由)、防大3代目校長に就任された。爾来8年間、校内保守派のことを魑魅魍魎の巣だと嘆かれながら、鋭意防大改革に取り組み、それ以前の理工系に特化した学校から人文社会化専攻(人間文化学科、公共政策学科、国際関係学科)を新設、視野の広い幹部自衛官の養成を目指す今日の姿を作り上げられた。
その後その衣鉢は西原正第7代校長(猪木ゼミ出身、平成12~18年)、第8代校長:五百旗頭真(猪木ゼミ出身、平成18~24年)に引き継がれた。他にも猪木ゼミ最後の学生であった戸部良一国際日本文化研究所教授も暫くの間防大教官を務められたとか。
このように猪木ゼミと防大とは因縁浅からぬものがある。先生がまだ現職の校長であられた当時に横浜の保土ヶ谷のご自宅にゼミ有志仲間と伺った際にも「是非一度防大を見学に来給え」と言われたが、忙しさにかまけて、それきりとなっていたが、ようやくそのお誘いを果たせたようにも思える。
また第8代の五百旗頭校長の著作「日本は衰退するのか」によると、やはり防大には五つもの異なる文化を身にまとう五族(教授、役人、陸上制服、海上制服、航空制服)がいるので、それを一つに纏め、改革を進めるのは大変だったと述懐している。
<防大の立地>
防大は浦賀水道を扼する観音崎に近い走水の高台「小原台」に立地する。眼下に紺碧の東京湾を見下ろし、東に房総半島の山々、西に富士の秀峰が仰げる、まさに景勝の地にある。日本経済の大動脈を支える無数のタンカー、コンテナ船、その他の貨物船の行き交う浦賀水道を眺めていると、海洋国家日本の国防とは何かを自然に意識させる好環境ともいえる。敷地は65万平米の広さ。建物は25万平米とか。
<建学の精神>
しからば防大の建学の精神とは何か?
建学の精神を表章するものとして本館裏の庭に「建学の碑」が置かれている。中央に槙智雄初代校長の胸像を配し、その胸像台座に刻まれた校長の学生への期待「Noblesse Oblige」の碑文が刻まれている。
「ノーブレス オブリージという言葉があります。高貴な身分のものは当然徳を備え、公共に奉仕することを意味します。諸君は大きな特権を持っています。四か年落ち着いて勉学ができるという、その特権にふさわしい徳は備えなければなりません。諸君は先ず国民の期待と信頼に背いてはならないと我々は考えます。我が防衛大学校の学生は国民の信頼を裏切らぬことを、その名誉にかけ、勇気を持って守らねばならぬのでありましょう」
その右に学生綱領の碑文がある。
そのモットーとして「廉 恥」「真 勇」「礼 節」を掲げ、
「国家防衛の志を同じくしてこの小原台に学ぶ我々は、我々の手によって学生綱領を定めた。その目指すところは常に自主自律の精神をもって自己の充実を図り、厳しい徳性のかん養に努め、もって与えられた使命の完遂に必要な伸展性のある資質を育成するにある。 我々は、誠実を基調としてこの綱領を実践し、輝かしい防衛大学校の伝統を築くことを期するものである。」との檄文が刻まれている。
やはり、吉田首相に懇望されてとは言え、初代校長として13年もの長期間在任され防大の建学を担われた槙智雄氏の足跡は大きかった。文官の身で軍の学校を預かることが前代未聞ならば、三軍の統合教育も画期的であり、槙氏の情熱を掻き立てて止まなかったと思われる。槙氏の目指したものは民主主義時代」の新国軍の士官像は「立派で有用な国家社会の一員」であるとともに「高き教養と学識を持つ人」であらねばならなかった。槙氏は「リベラルエデュケーション」と「高き気風」の中で学生を育てようとされたようだ。学生自らが定めた学生綱領にその建学の精神は生きているようだ。
<国際化した防大―海外士官学校との交流>
係員の説明を聞いて、一番驚いたのは防大が国際化という点では、日本の高等教育機関に中で或いは最先端を行っているのではないかと言う事実である。
①国際士官候補生会議
オーストラリア、フランス、ドイツ、インドネシア、マレーシア、フィリピン、韓国、シンガポール、タイ、イギリス、アメリカなど10数か国の士官候補生を招聘し、約1週間の日程で、国際情勢、安全保障に関する討議を行っている。
②外国人留学生の受け入れ
タイ、シンガポール、マレーシア、フィリピン、インドネシア、モンゴル、ベトナム、韓国、ルーマニア、カンボジア、インド、東チモール、ラオスの士官候補生を留学生として受け入れている。現在の在校留学生は約100名と言う。戦前の陸軍士官学校にも蒋介石や朴正熙などが来ていたというが規模と広がりが比較にならぬのでないか。
③海外留学
短期留学制度として、1~3週間インド、シンガポール、タイ、英国、米国、中国の各士官学校に派遣している。
長期留学制度としては韓国、米国、フランス、ドイツ、カタール、オーストラリアの陸・海・空各士官学校に4カ月~1年間派遣している。
この状況を見ると、日本では群を抜いて国際化が進んだ大学だということがわかる。最近英国の調査機関が毎年発表しているTHE(Times Higher Education)によると、「日本の世界大学ランキングが大幅に下落した。東大12位→43位、京大27位→88位となり、シンガポール大、北京大、香港大にも抜かれた」とセンセーショナルに報じれたが、このところ毎年のようにノーベル賞受賞者を輩出していいる事実と実感が合わない。
THEの評価基準によると、日本の大学の国際化率(留学生率、外人教授比率)が低いのが、低評価につながっていると、読んだことがあるが、こういう観点からすると、日本の防大は世界軍学校ランキングでは断トツ第1位になるのではないかとさえ思えた。
<記念戦艦「三笠」見学>
防大ツアーは1400過ぎに終わったので、折角だからと、日露戦争でロシア海軍との日本海海戦で、言わばPerfect Battleをやってのけた東郷平八郎の旗艦「三笠」を見学することにした。子供たちがまだ幼かったころ、一度訪れたことがあるので、約40年ぶりである。大昔のことでもあり、記憶ははっきりしないが、見違えるように、展示が充実していた。思わず引き込まれて、熱心に展示を見ているうちに時間がたつのを忘れて、気が付いたらカンバンの時間となっていた。
艦上にはボランティアの海上自衛隊OBの案内人がいて、「山本権兵衛という偉大な人物がいたので、日露戦争に勝てた。薩摩海軍の古手の軍人を無理やり退役させ、秋山真之などの若き人材を登用し、戦力の充実に努めた。日本海海戦時の海軍兵力差は日本10:ロシア1で、勝つべくして勝てたのだ。山本権兵衛の作り上げた日本海軍の伝統の故に、敗戦で一旦零となってしまったJapanese Navyは今や世界第3位の実力を備えるまでに至った」と、熱っぽく語るので「米海軍は断トツとして、2位は?」と質問したら、「ロシア、英国、フランス、イタリアなど」との答えであった。ロシア、英国、フランスまでは納得できなくはないが、イタリアはどうかと思った。「中国は?」と聞いたら、「艦艇の数は多いが、訓練がなっていない。果たして運用できるのか?」という反応であった。
<横須賀海軍カレー>
1700に退艦した後、横須賀中央まで戻り、有名な「どぶ板通り」を見物し、海軍カレーの店「魚藍亭」に行き、最近有名になってきた日本帝国海軍伝統のカレーを肴にビールで乾杯し、一日の行事を終えた。
海軍カレーはマイルドな味で、いわゆる激辛のインドカレーとは程遠い代物で、なかなか美味しかった。
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