« January 2012 | Main | July 2012 »

March 24, 2012

服部龍二中央大教授「日中国交回復―田中角栄、大平正芳、官僚たちの挑戦」読了

 先日服部龍二中央大教授「日中国交回復―田中角栄、大平正芳、官僚たちの挑戦」(中公新書)読み終えた。昭和47年の自民総裁選挙で、福田に大勝した田中首相が外相大平正芳と組んで、就任後50日と言う時期に電光石火のごとく国交回復に漕ぎ着けたドラマを活写している。田中にとっては総裁選に勝つために三木武夫、中曽根を自陣営に引き込むための方便だったとは言え、一度日中国交回復を決断するや、盟友大平と外務官僚達に全てを任せ、国交回復に邁進する姿は凄いと思った。
 大平も田中も戦時経験から中国に対するguilty consciousがあったことが中国への柔軟な対応を可能にしたと言う指摘、また周恩来が提示した復交三原則「①中華人民共和国が中国唯一の合法政権であること、②台湾は中国領の不可分な一部であること、③台湾との日華平和条約は不法であり、破棄されるべきこと」のうち、交渉の結果日本側は①のみしか受け入れないまま、交渉が妥結したこと、この交渉にあたっては外務省の所謂China Schoolは排除され、条約局、知米派が仕切ったこと、など全く知らなかった事実も知りえた。
 田中角栄については後のロッキード事件など政治腐敗で日本政治に流した害毒はきわめて大きいと思うが、この日中国交回復時に発揮した政治決断、外務官僚たちを思う存分に働かせた政治指導のあり方を見ると矢張り傑出した政治家だったのではないかと再評価する気分にもなった。
 服部龍二は1992年京大法卒であるが、大学院は神戸大学に進学している。或いは後に防衛大学校長になる五百籏頭真教授の指導を受けるために神戸を選んだのだろうか? 

| | Comments (133) | TrackBack (0)

デイヴィット・レムニック著「レーニンの墓」読了

先日デイヴィット・レムニック著「レーニンの墓」を読了した。法政大学の下斗米教授などソ連政治学者がこぞって推奨する書物で、読み応えがある。ご一読を薦める。
<上巻>
 著者レムニックは元「ワシントン・ポスト」のモスクワ特派員。ゴルバチョフが1985年3月に権力を掌握した後の4年間モスクワ特派員生活を送り、4年間の任期を終えて1991年8月18日シェレメチボ空港からパンナム機で離任した直後にKGB主導のクーデターが起こり、急遽モスクワに舞い戻った。ジョン・リードが{世界を揺るがした十日間」で「激烈な歴史の一断片」と描写した1917年のペトログラード蜂起に比較しても「それよりも激しさの度合いが低かったとはとても思えない」事件を目撃することになる。上巻はこの1991年クーデター以前のゴルバョフのペレストロイカとグラスノスチの経緯を扱っている。フルシチョフのスターリン体制批判の短い雪解けの後、ブレジネフ体制がスターリン主義を復活させ、泥沼の暗い圧制が続いた様子と、ゴルバチョフ登場後も、彼自身が共産党支配を終わらせる積りは全くなく、精々共産党支配の改革を目指していたに過ぎなかったので、末端では箍が緩んできてはいたが、不徹底の謗りを免れず、何時反革命クーデターが起きてもおかしくない不満が旧支配機構の内部に鬱屈していた様子がこの上巻では描かれている。
<下巻>
 下巻は1991年夏の共産党保守派の杜撰でお粗末なクーデターの発生とエリチンが危険を省みず、果敢にクーデター軍に素手で英雄的に立ち向かうことによって、民主派の糾合の成功。一気にソ連帝国とそれにアマルガムのように合体した共産党の自壊へと一気につき進んで行くドラマに圧倒された。知的で洗練されたような外観をまとったゴルバチョフのペレストロイカが、粗野なエリチンの革命に道を譲らなければならなかったのか、よく理解できていなかったが、本書を読んでそのプロセスの全貌が理解できた。
 ゴルバチョフは共産党の支配構造を残したまま、情報公開をはかり、政治経済運営をペレストイカ(改革)し、効率化しようと試みたようだが、しかし上からの改革であるペレストイカはゴルバチョフの思惑をはるかに超えて、それが解放ったシベリアの炭鉱労働者ストがやがて年知識層やバルト諸国をはじめとする民族運動に有機的に結びつき、ゴルバチョフを窮地に追い込んで行ったのだ。時代が大きく進んでいっているのに、ゴルバチョフはその重要な時期に党の保守派と駆け引きを続け、トビリシ、ビリニュス、リガ、バクーなどでの平和デモへの攻撃を黙認した。最後には特権階級としての地位を失うことに脅威を感じた党保守反動派によるクーデタが起きてしまう。クーデタを企てた首謀者はKGB議長クリチュコフ、仲間はヤゾフ国防相、パブロフ首相、などで、後で協力者としてヤナーエフ副大統領、プーゴ内相、リュキャノフ最高会議議長などをを巻き込む。党、国家機関上層部からは裏切られて、失脚を余儀なくされたゴルバチョフは民主派からも無視される羽目に陥ってしまった。途中で袂を別ったゴルバチョフの盟友のシュワルナゼやヤコブレフは遥かに状況を正しく認識していたようであるが、ゴルバチョフは盟友たちの忠告には耳を貸さなかったようだ。
 このソ連帝国の突然の自壊には遠くフルシチョフのスターリン批判によって衝撃を受けて、自由な思考を取り戻し始めた「二重思考者」たち。体制と反体制のはざまにあって、外面的には反抗に踏み切れないまでも、自分自身の内なる道義性を保持し、「嘘によらず生きる」ことに努めてきた人びとの伏流水のようなエネルギーが蓄積していて、このような激しいドラマを生んだのではないかとも思われる。北朝鮮にはこのような良心的二重思考者は何処にもいないのだろうか?
 フルシチョフのスターリン批判はスターリンのテロは酷いが、レーニンは正しかった。従って社会主義の理想は揺るがないが、スターリンのテロリズムによって、それを逸脱したに過ぎないので、レーニンに戻るべきだと言ってレーニンが主導した建国神話は無傷に残そうというものであった。
 しかし、クーデタより1ヶ月半前のフランス革命200年記念での演説でヤコブレフはソ連の建国神話に公然たる攻撃を加えた。「ボルシェビキ革命はたちまちテロによる支配、ジャコパン派のギロチン使用をはるかに凌ぐテロによる支配に退化してしまった。スターリンの登場は逸脱などではなく、階級闘争の道具そして浄化力としての暴力を理想化したレーニンの『革命的ロマンチシズム』の直接の帰結なのだ」というヤコブレフは盟友ゴルバチョフをはるかに超える境地にまで達していたようだ。エリチンの民主革命はこのレーニン信仰もあっさりと葬り去ってしまった。本書のタイトル「レーニンの墓」その寓意であると言う。

| | Comments (681) | TrackBack (0)

« January 2012 | Main | July 2012 »