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September 30, 2011

レインボーブリッジを歩いてお台場へ

先日(9/27)、学生時代のクラスメートとレインボーブリッジを歩いて渡ると言う阿呆なイベントを試みた。P9270038rainbowbridge_2


<レインボーブリッジを歩いて渡る>
 1000発の「ゆりかもめ」に乗車。4つ目の「芝浦埠頭」で下車。5分ほど歩くとレインボーブリッジの遊歩道に登るエレベーターがある。車だとあっという間に通り過ぎるレインボーブリッジを歩いて渡ろうなどという酔狂な試みは、このような集団でやらないとアホくさくて、一生やりそこなうと思い、あえて企てたものであるが、エレベーターには何とキャリーバックを引きずった中年のオジサンが乗ってきた。聞きただしたわけではないが、多分出張の仕事が終わって、何か面白いことはないかと考えた挙句、この酔狂な試みを個人で企てたものと思われる。こういう何時までも少年のような好奇心を失わない行動はきっと仕事の面でも良い成果を生むと思われる。密かに拍手喝采である。
 想像では海の上数十メートルの遊歩道をのんびりと歩くのはさぞ快適であろうと考えていたが、案に反して、重量トラックがどんどん駆け抜けて行き、排気ガスも気になって、落ち着かないし、快適には程遠い。参加者の一人は鼻口にタオルを当てっぱなしであった。
 我々は橋の両側にある遊歩道のうち南行ルートを選んだが、このサイドからはお台場の如何にも未来都市群と言う佇まいのビル群とお台場遺跡が良く見え、中々の景観である。遠くには品川と大井のコンテナ・ターミナルや羽田空港、東京湾アクアラインの排気塔などが見える。

<第三お台場公園>
 1.6キロのレインボーブリッジを渡りきったところに第三お台場公園がある。
 これは嘉永6年(1853年)アメリカ艦隊来航にあたって海防の必要を認めて江戸幕府が韮山代官江川太郎左衛門に命じて築造した台場のひとつである。陣屋や弾薬庫がの痕跡がよく残されているとして、無人島と化している第六台場とともに1926年(大正15年)10月20日に「品川台場」として国の史跡に指定された。
 一辺が約160mの正方形で、石垣積みの土手や砲台跡、内側の平坦なくぼみには、陣屋、弾薬庫跡などがある。比較的人も少なく落ち着いた雰囲気のお勧めポイントである。
 デックス東京ビーチやフジテレビなどを対岸から間近に眺め、北側ではレインボーブリッジを眺めることもできるロケーションはムード満点。

<お台場海浜公園>
 第三お台場公園を出て、人工ビーチのお台場海浜公園を歩く。公園では仮設の観覧席を組み立ているので、これは何かと確かめたところ、ビーチバレーの国際大会が開催されるとか。
 人工ビーチを半周したところで、丁度昼になったので、「デラックス東京ビーチ」と言う物品店と飲食店が沢山入っているビルに入り、オムライスとビールの昼食をとる。キリンの生ビールは中々美味かった。
 このビルの中にティーンエイジャーまがいの女の子の長い行列が出来ている。しかもそれはビルの外まで及んでいる。ウィークデイの昼間だと言うのに何事かと聞いてい見ると、エグザイルという居酒屋に入る行列だと言う。エグザイルというのは耳にしたことがあるなあと思って、あとで確かめたところ、『ビアガーデン形式の「居酒屋えぐざいる」と「駄菓子屋えぐざいる」を期間限定でここにオープンした。ダンスボーカルユニットのEXILEのメンバー14人全員が新メニューを考案。企画段階からメンバーがアイデアを出し合ったオリジナルメニューは“LOVEオムレツ”など全14品。ダンスボーカルユニットのEXILEのメンバー14人全員が新メニューを考案。企画段階からメンバーがアイデアを出し合ったオリジナルメニューは“LOVEオムレツ”など全14品』と言う。
 報道もされず、しかしブームになる現象が彼方此方にあるらしい。

<船の科学館>P9270040_2

 デラックス東京ビーチを出て、船の科学館まで歩く。丁度良い距離だ。 
 船の科学館は、お台場地区にまだ何もない1974年(昭和49年)7月に竣工・開館した海洋博物館。2011年9月30日を以て大半の施設が休館(閉館に近い状態)となり、屋外に展示されている青函連絡船も処分されるとの報道があり、その前に行っておかねばなるまいと言うのが今回のレインボーブリッジ徒歩で渡るプロジェクトのもともとの動機であり、その意味で最終目的地でもある。
 船舶や海運、海洋開発、海上保安に関する事柄を中心に展示する海事博物館である。船舶の構造・歴史の解説や、エンジンなど各種機器の展示を行っているが、羊蹄丸の展示は青函連絡船の活躍した時代の青森、函館の闇市の様子など、生活感あふれる仕掛けが随所に施され、郷愁を誘うに十分であった。
 船の科学館の見学は中々力があり、見学が終わった頃には1630を回っており、各々東西に分かれて、帰途についた。P9270041_2


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September 26, 2011

ヘレン・ミアーズ「アメリカの鏡・日本」(角川書店)を読む。

 Helen Mearsは1900年生まれのメリカの歴史学者。ガウチャー女子大を出て、中国、日本に遊び、戦時中はミシガン大学やノースウェスタン大学で占領地民生講座で講義し、日本研究を深めたと言う。終戦の翌年GHQの労働諮問委員会の一員として来日、労働法の策定に参加した。
 占領後のホワイトハウス声明やポーリー報告が「断固として、日本を懲罰し、拘束する。懲罰によって野蛮な人間どもの戦争好きな性根を叩き直し、金輪際戦争できないようする。そのために、生きていくのがやっとの物だけを与え、後いっさいを剥ぎ取ってしまおう」と言う狂気に満ちた雰囲気が横溢していた1948年に刊行されたこの本は近代日本の行動原理を公平に歴史を透徹して見る目の鋭さでその真実を抉り出している。
近代日本は自らが植民地化の脅威にさらされながら、半植民地の状況(治外法権・関税自主権の喪失)から何とか抜け出そう必至の努力をし、西洋列強の創り出した国際法秩序、ゲームのルールに忠実に従いながら、自らに突きつけられた生存を脅かす脅威に立ち向かおうとした。それが日清日露の戦役である。韓国は日韓併合条約は武力の威圧の下に押し付けれれたから無効だと主張するが、それは法的手続きを完全に踏んだ当時としては国際法上瑕疵のないものであった。何分にも帝国主義の植民地支配のルールはその意味では全てが法的擬制の上に成り立っていた。満州国独立も傀儡国家に過ぎず、法的擬制だと言うが、そのステータスはパールハーバー以前のフィリッピンの地位よりも相対的に独立性が強い。しかも日本は満州国に対して、治外法権を放棄し、在留日本人に対する課税権を認めている。その時期英米は上海等で保持していたその種の権益を放棄しようとしなかったのみか、西洋列強は「満州には欧米諸国の特権的地位を奪う権利はない」と激しく攻撃したと言う。
 日本にはある程度自己欺瞞の面はあったにしろ、列強の一員の列っした非白人国家として、西欧列強のアジア植民地支配に一矢を報い、アジア民族を解放独立させようと言う意識は嘘ではなかったと思う。指導者は兎も角も、少なくとも民衆レベルではそう信じていたのは間違いない。
 アヘン戦争以来中国初めアジアを植民地化し、収奪する体制を創りあげたのは西洋列強であり、日本ではない。日本はその法的擬制を忠実に守って、その地位を少しでも高め、生存空間を広げようとしたに過ぎないのに、自己の権益が侵され始めた西洋列強にABC包囲陣を敷いて禁輸措置で締め上げられ、やむなくイチかバチかの賭けにでて太平洋戦争に打って出たに過ぎない。日本を非難するならばその刃はそのまま西洋列諸国に向かうべきものだと言うのがミアーズ女史の見立てある。戦後間もなくの戦勝の興奮が覚めやらぬ1948年に、このように主張した戦勝国民である筆者の透徹した公平な歴史認識には驚くほかない。米占領下に一旦邦訳され出版が企てたれれたが、マッカーサー自らの指示による発禁処分に遭い、1995年まで日の目を見なかったのも無理はない。
 全くの無知なのか、あえて無視するのか、19世紀後半から20世紀前半にかけて東洋で繰り広げられた西洋列強のせめぎ合いの歴史を無視して、東京裁判史観を丸呑みし、A級戦犯非難を続ける中国、韓国の政治家たちにも一読して欲しいものである。真犯人である西欧列強の自己矛盾に満ちた主張を鵜呑みにして、刃の向け先を間違えているいるではないか?
更には1944年には工業生産が本格的に回転し始めた米国に対し、日本の工場設備が生産の限界に達していて、日本の継戦能力は急速に失われつつあった。そのまま推移すれば、米軍が最大の損害を受けた硫黄島、沖縄の上陸作戦がなくとも、日本は降伏したであろう。それにも拘らず、「日本空軍は壊滅した。もはや脅威ではない」と言いながら、日本の64都市に絨毯爆撃を仕掛け、4万トンの爆弾を投下して850万人の無辜の市民を殺害、或いは家を失わせた。その上、広島、長崎への原爆投下だ。これは非武装市民への攻撃を禁じた戦時国際法に明白に違反するものだ。「本土上陸か、原子爆弾がなければ、日本は占領を受け入れない」と言う論理でこれを正当化し、ファナティックな戦争好きの日本人の性根を叩き潰すと言うが、「いい猟」とか「獲物」とか言いながら、戦闘能力を失った日本軍兵士を追い回したアメリカ人とどちらがファナティックな戦争好きだったのか? こう言う彼女の告発にも目が覚める思いだったことを付記したい。

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September 08, 2011

「金大中自伝」 I&II 読了

「金大中自伝I―死刑囚から大統領へ」
1924年生まれの金大中は日本の植民統治下の木浦商業学校を終え、海運業に従事。何度も死刑寸前まで行き、奇跡的に生還し、4回も大統領選に出馬、軍と腐敗した保守派、マスコミの執拗な不正、妨害工作に阻まれて、落選を繰り返すが、遂に1997年12月18日第15代大統領に当選。初めての野党候補として当選、平和的政権交代への道を開いた。WSJは「南ア共和国のネルソン・マンデラとポーランドのレフ・ワレサが大統領になったのに比肩する偉大な政治的事件」と報じたと言う。

「金大中自伝II―歴史を信じて:平和統一への道」
この巻は大統領当選後の事跡とその後をつづったもので、やや自己宣伝臭が強いところが見られるが、しかし、苦節40年に鍛えられた信念と信仰が就任早々に襲われたアジア通貨危機を早期に克服するなど大きな業績に結びついてものと思われ、感動した。思想は左翼的だが、実際の経済運営は極めてオーソドックスな自由主義的経済政策を大胆に採用し、解決への道筋をつけたのもはじめて知った。また熱烈な民族主義者で南北統一と北朝鮮への思い入れは相当なものだが、この思い入れは必ずしも実を結んだとはいえない。「親の心、子知らず」と言うところか? 自分を省みてくれなれば、幼児のように拗ねて、核実験、ミサイル発射実験などの暴挙に出て、全てをぶち壊してしまう北朝鮮相手の実を結ばない太陽政策への拘りは切なくさえある。更には彼の反日姿勢・思想も相当なものであることも分かった。人権、人権と呼号し、人権派政治家を最高のidentityにしているが、北朝鮮の横田めぐみさんなどの日本人拉致事件については何の言及もない。北朝鮮と同じように、日帝の暴虐に比べれば軽いものとでも思っているのだろうか? 彼を尊敬するに吝かではないが、この違和感は如何すればよいのだろうか? 日帝の暴虐は歴史上の事実であるとしても、訴訟法的には公訴時効にかかっている話だが、日本人拉致事件は現在も続いている犯罪である。同列に扱うのはおかしいと思うのだが・・・・・・・・。尤も日本のホテルから金大中が拉致され、生命の危険にさらされた時も、日本政府は毅然とした態度で、同氏の人権を守ろうとしなかったのだから、大きなことは言えないが・・・・・・・。

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