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May 24, 2010

【小笠原島航海記】

 5月11日~16の6日間、小笠原父島まで「おがさわら丸」(6679トン、航海速力22.5ノット、乗客定員1031人)で赴き、4日間滞在(その間本船は二見港に停泊して復航便に乗船する我々船客を待ている)また25時間30分の航海で東京港竹芝桟橋に戻ってきた。 以下はその航海記である。
 そもそも「何故小笠原か?」であるが、数年前に義兄のS氏(東京工大でのエンジニアでアルブラス―日本アマP5120052_2


ゾンアルミニウム会社の現地工場建設に従事した)から「一生の思い出」に小笠原に行きたいのだがと相談を受けた。その時は大して気にも留めていなかったが、昨年9月末民事調停委員も退任し、俄かに暇となったので、その話を思い出した。そろそろ付き合っても良いかと今回の航海を企画した。そもそも戦前郵船が東京府の命令航路として、小笠原航路に配船していた関係で、今も小笠原航路は東海汽船と郵船の合弁会社である小笠原海運が航路を運営している点でも今回の旅行を企む上では都合がよかった。

2010/05/11
 乗船手続きの為、0900竹芝桟橋の客船ターミナルに集合せよと言うので、雨の中を通勤時間帯の満員電車で、浜松町まで赴く。久しぶりの満員電車はこたえた。ターミナルでは戸高社長の出迎えを受けた。まるでVIP待遇である。義兄のSさん夫妻も先に来ていた。0930頃乗船開始。遅れてきた船客を待って、1010頃出帆。出港風景は雨の所為もあって、地味で物悲しい。
 東京湾内を航行中に早々とレストランで食事。そこまでは良かったが、浦賀水道を出て相模灘に差し掛かった途端、船が激しく揺れ始めた。窓のないサロンでブリッジの真似事などやろうとしたのが、更に事態を悪くした。同行者3人が気持ちが悪いとキャビンに戻り、吐き始めた。3人よりは乗船経験が豊富な小生は吐き気こそ催さなかったものの、余り気持ちは良くなかった。やることもないので、付き合ってベッドで転がっていたら、うとうとと、1500ごろから朝0400ごろまで良く眠れるものだ。夜中に「お客様の中に医療関係のお客様はいらっしゃいませんか?」と言うアナウンスがあった。誰か相当気分が悪くなったのかなと軽く考えていたら、実は「大揺れ時に50台の女性がトイレで洗面台に打ち付けられ、ろっ骨を骨折する事故があり、到着後、島の診療所の要請で厚木から自衛隊の水上機が飛び、レスキューした」と言う、かなりの大事故があった由。やはり相当な揺れだったのだろう。通常のローリング(横揺れ)やピッチング(縦揺れ)とは違う揺れのように感じた。むしろFin Stabilizerで抑えている分、横に激しくスライドする感じだった。デッキの上のハウスのキャビンの窓にも絶えず波がぶち当たる。本船では開放デッキの出入り口の全ての水密扉を閉じたようだ。折から日本の南海上を発達しながら東進する低気圧の真っ只中に突入したのだろう。悪夢の一夜であった。

2010/05/12
 しかし、夜が白み始めることには大分波もおさまり、雨もやみ、聟島列島が見えはじめ、いよいよ小笠原に来たぞという気分になる。それから暫くして弟島、兄島、西島と連なる父島列島が見えてきた。父島と兄島の間の兄島瀬戸は川のように流れが速いとか。
1130定刻に父島二見港到着。心が洗われような綺麗な海水の港だ。 
「シーサイドイン・アクア」の経営者夫婦の出迎えを受けて、宿に。早速街に食事に出かける。じんべえ庵と言うレストランを見つけ、島の刺身を食べる。中々美味しかった。  村役場の向かいにある観光協会「B-しっぷ」で紹介してもらった小笠原観光(有)に行って、翌日の父島一周イルカ・ウォッチング―兄島海中公園の魚ウォッチング―南島上陸のツアーを申し込む。ついでにそこで自転車を借り受け、Sさんと2人でサイクリングに出かける。事務のお姉さんは我々の歳を見て、上り坂のない境浦海岸手前までで止めるようにとのアドバイスをしてくれたが、そんな忠告はものともせず、上り坂を3~4回も上り下りして、海軍の飛行場があったという州崎まで行った。小港海岸が車が行ける最先端の浜であるが、それに近いところまで行ったのは凄い。折り返して街まで帰ってきても未だ自転車の返却時間の3時間には大分時間が余った。街中をぶらぶらし、ビジターセンターで小笠原の案内ビデオを見て過ごした。
 宿に帰り、入浴、食事。食事は地元の食材を生かした料理。見た目も洒落ていて、しかも中々美味しい。
 
2010/05/13
 朝0500起床。旅行中の何時もの習慣だか、早朝散歩に出かける。手始めに宿の前の大村海岸(前浜)に出て、海岸線を東に向けて歩く。海岸はコバルトブルーに美しく輝いている。停泊中の「おがさわら丸」を横に見て、二見漁港に向かう。漁港には観光客を乗せるプレジャーボートが多数停泊している。その周辺には海上保安署、水産センター、東京電力などが立ち並ぶ。立派なたたずまいの地域福祉センターの隣の公園に「鎮魂」の碑がある。第二次大戦中の小笠原海域での戦死者を弔う碑だと言う。そういえば、父島から300キロ離れた激戦地硫黄島も小笠原村の一部らしい。
 朝食後、小笠原観光(有)に向かう。会社構内でウェットスーツを半身着用し(寒さ防止にもなるという)、マイクロバスに乗り込んで二見漁港に向かう。二見漁港では社長自らが操縦する「ドリーム号III」に乗り込んで、父島東方の海域にイルカの群れを探しに向かう。既に数隻の遊覧船が現地に来ていて、ウェットスーツにシュノーケルのイルカWatcherが船尾からおりて、イルカと一緒に泳いでいるのが見えた。「あなた達も降りるか」と言われたが、波も荒いし、水深も見当も付かないくらい深そうだし、遠慮した。
 その後父島の南沖を東に航行し、沈水カルスト地形の南島に向かい、上陸を試みるが、引き潮で水深が足りな
いため、上陸は午後に回し、父島南岸のジョンビーチ、ジョニービーチ、円縁湾の千尋岩(ハートの形をしているのP5130049


で通称Heart Rockと言う)、巽湾、父島の東にある東島とその間のろうそく岩などを見ながら、兄島瀬戸に入り、兄島海岸の浜にある海中公園でアンカー。海水の透明度は高く、熱帯魚やサンゴ礁は息を飲むような美しさである。今度は躊躇わず、ウェットスーツとシュノーケルに身を包み、海中探索に飛び込む。黒いウェットスーツの人間を魚の仲間だと勘違いするのか魚たちは目の前、手が届くところにうようよと寄ってくる。水中カメラのレンズの前に立ちはだかって、写真が撮れないくらいだ。
 船上で弁当を食べた後、兄島瀬戸を通り抜けて、瓢箪島、西島などを経由、父島西沖を一周する形で、鯨の姿を求めて、放浪の航海を続けるが、既に時期はずれで、鯨の姿は見えなかった。
 1430頃南岸に深くえぐられた鮫池から南島に上陸。鮫池の隅には鮫が沢山たむろしている。上陸にあたってはガイドの指導で靴やサンダルについた土や花の種を洗い落とす。外来種を持ち込まないための処置である。この辺も世界自然遺産に立候補している島民の心意気というか神経の使い方なのであろう。
 上陸して珊瑚で出来た岩を登って丘の上に立つと眼下に限りなく白に近い砂浜と波の浸食で穴が開いた岩から打ち寄せる波が輝く扇池が見える。島の南西部には沼があって、アマサギが悠然と歩いていた。南島は地球のダイナミズムを感じさせる島だ。1600頃帰館。

2010/05/14
 0500起床。一路自動車道路を三日月山展望台を目指す。かなり雲が出ていて、展望台からの眺望は余り効かない。母島を見るのは無理なようだ。しかし、父島東沖が綺麗に見える。駐車スペースの奥を見ると三ケ日山山頂への登山道が見える。距離は少しありそうだが、折角だから、行ってみることにした。山頂からは弟島、瓢箪島、展望台からは見えなかった二見湾が良く見える。船を象った宿の「アクア」も良く見える。
 0900レンタカー屋が出迎えに来る。0915レンタカー屋で手続きを済ませ、カローラ・バンを5時間借り出す(¥5280)。一路再び三日月山展望台を目指す。三日月山から宮之浜に。宮之浜は兄島瀬戸に面した美しい海岸だ。珊瑚礁も発達していて、シュノーケリングをやると綺麗だろう。宮之浜から釣り浜展望台を経由して、一旦レンタカー屋のある奥村地区に戻り、そこから中央山脈の尾根を這うように走る山岳道路の夜明道路に入る。長崎展望台は兄島と兄島瀬戸を望む名所のようだが、駐車スペースに工事車両が止まっていたので、パスした。その後旭平展望台、国立天文台に立ち寄る。国立天文台は望遠鏡があるのかと思ったら、三角測量の要領で遠くの恒星の位置を測定するバラボラアンテナの電波望遠鏡がある。
 その後、東平アカガシラカラスバト・サンクチュアリーの看板が見つかったので、立ち寄ることにした。処が案内板によるとガイドが同行しないと入場禁止とある。困惑していると、丁度その場に小笠原村副村長と東京都小笠原支庁の環境保護担当職員がガイドしている一団が居合わせた。その人たちに同行を頼んだところ、OKと言うので、好意に甘えることにした。ここも南島同様外来種の進入防止のため、靴底の泥を払い、粘着性のローラで服についた種子類の取り払う必要がある。アカガシラカラスバトには会えなかったものの、珍しい、貴重な植物群を観察できた。
 次に中央山に登ることにした。中央山は父島の中央にそびえる319mの山で、島で2番目の高峰。360度の眺望が開け、二見港を眼下に、連なる山並み、入り組んだ湾や砂浜など、島全体が見渡せた。
 山を下って、小港海岸に行く。小港海岸は父島一番の川の河口に開けた、抱きかかえられたように半島に囲まれたエメラルドグリーンの海を前にした柔らかい白砂の浜辺がまぶしい。波はほとんど立たず、水は澄み切り、浜も広く、子供との海水浴には最適である。1830年米人セーボレーが率いるハワイのカナカ土人二十数名が上陸し、定住を開始したのもこの浜と言う。
 今回のドライブの終着点である小港海岸を後にして、今度は海岸線を二見港地区まで引き返す。途中、扇浦と言う浜にあるホテルホライズンに立ち寄る。今上陛下が來島時宿泊されたと言うが、さして豪華でもない、何の変哲もないリゾートホテルだ。これが島一番のホテルと言うことになる。島には「上には上が無い」と言うことだ。そういえばドリーム号IIIの船長は「天皇陛下は気さくな人だね」と言っていた。島民の受けた印象は極めてよかったようだ。
 1400前レンタカーを返すころには雨が降り始めた。間一髪良いときにドライブを終えることが出来た。
 昼食後、一旦旅館に帰る。小生のみ単独でビジターセンターに行き、自然展示、歴史展示を綿密に見る。

2010/05/15
 本日は快晴で帰航の日。乗船してしまうと、運動不足になりそうなので、二見漁港はずれの小笠原海洋センターまで歩いていくことにした。海洋センターはザトウクジラ、アオウミガメの調査・保全活動を行っている。水槽では親亀、子ガメが元気に泳いでいて、人工孵化した親亀も元気に育っていた。
 二見漁港まで戻って、小笠原水産センターを見学する。ここは東京都の水産試験場で、資源保護や養殖漁業の研究を研究を行っていると言う。付属水族館には小笠原に生息する魚類が沢山元気に泳いでいた。
 その後、大神山公園のパノラマ展望台に登る。二見湾全体が展望できる絶好の展望台である。眼下には出港準備で荷役に余念のない「おがさわら丸」の雄姿が見える。 
 昼食後宿に帰り、車で港まで送ってもらう。
1400出港。大太鼓の連打などあって、賑やかな出港風景だ。特に島の中学3年生17人が本土に修学旅行に出かけるとかで、その見送りの所為もあってか、特に賑やかなように見える。「行って来ますー!」と言う声は賑やかだが、「さようなら!」と言う声は余り聞こえない。
 銅鑼の音が響き、いよいよ出港だ。沢山のプレジャーボートが乗組を沢山乗せて、本船に随伴し、港外まで見送り来る。港外の沖深くまで随伴し、最後はクルーが次々に海に飛び込むパフォーマンスで別れを惜しむ。見事な歓送振りである。
 夕食に期間限定という「チキンのハーブ島塩焼き」を食べる。中々美味しかった。そう言えば島の土産の名物は島塩(北極海からもぐりこんだ海水が小笠原付近で上がってくるので美味しい塩が取れると言う)、蜂蜜、島唐辛子入りのラー油、パッションフルーツと言ったところ。
 復航は往航とは打って変わって穏やかな航海だ。勿論船だから少しは揺れる。しかしこれくらいの揺れはむしろ揺籃で揺られるように却って心地よい。熟睡だ。

2010/05/16
 一夜明けて、0700頃八丈島沖、1000頃三宅島、1140頃大島沖を通過。それぞれ独特の島影が良く捉えられた。相模灘に入ると、タンカー、自動車船、コンテナ船、に次々と出会い、海上自衛隊の護衛艦も数隻相模灘で訓練中のようであった。1300頃浦賀水道を経由して、東京湾に入る。船の往来は相変わらず激しい。横浜ベイブリッジ、ランドマークタワー、羽田空港、海ほたる、大井ターミナル、お台場のビル群を経由し、レインボーブリッジの下を通って、いよいよ竹芝桟橋に入港だ。レインボーブリッジの下を通過する際の橋桁の下から見える東京タワーをはじめとする高層建築群は圧巻であった。1530定刻竹芝桟橋着。下船。

<小笠原の歴史と印象>
 小笠原諸島は信州松本深志城主の小笠原貞頼が1593年に発見したと伝えられるが、その後無人島のまま放置された(英語名Bonin Irelandは「ぶにん」が訛ったものらしい)。
 19世紀に入って、北太平洋での捕鯨漁業が盛んになると、飲料水、薪炭の貯蔵所、補給基地として注目されるようになり、1830年には米人セーボレーがカナカ土人男女23人を率いてハワイから来航、父島に上陸して定住を開始した。
 1853年のペリー来航の後、1861年に外国奉行に率いられた巡察隊が欧米人が定住していることを発見して、ショックと受けた幕府は日本人による小笠原の開拓、経営を開始した。幕末期には内外情勢の混乱から、開拓事業は中止されたが、明治9年に至って、内務省が出張所を開設し、本格的な移住促進事業が始められた。
 昭和14~17年の最盛期には島民8000人を数え、カツオ、マグロ漁業や、内地への冬場の野菜出荷などで、島民経済は繁栄し、平均年収は4500円にも上ったと言う(当時の総理大臣の年収は8000円、大学出の月給は80円)。
 しかしながら、太平洋戦争末期に米軍侵攻の最前線に立たされる恐れがあったので、島民全員が内地に強制疎開させられて、島民の歴史は一度断絶した。
 現在の島民は強制疎開させられた島民の子孫は少なく、たまたま小笠原を訪れて、その自然に心奪われた謂わば自然児たちが住み着き、主として観光業に従事しているように見えた。ドリーム号の岡本武治船長(社長)も石垣島など日本の辺境を放浪していたが、小笠原で生涯の伴侶を見つけて、定住したと言っていたし、ガイドの「ひろみ」ちゃんも松戸の出身という。宿アクアのオーナーの若夫婦は旦那は埼玉出身、奥さんは川崎出身とのことであった。
 それよりも目がつくのは公共セクターの比重の高さである。村役場よりも立派な東京都小笠原支庁、小笠原総合事務所(国土交通省の出先機関)、海上自衛隊、気象庁の観測所、海上保安署、東京都港湾局支局、国立天文台、宇宙開発機構の衛星追跡所などなど枚挙に暇がない。これらの機関で働く人たちとその家族の比重はかなり高いのではないかと思われた。高台に立つ小笠原高校は生徒数60人くらいと言うが、立派な佇まいである。江戸時代に海防の最前線と意識されたように、現在も200海里の経済水域の管制センターとして、広い意味での国防の最前線を担っているのであろう。
 しかし、島民たちはそのような地政学上の重要性などとは無関係に、皆のんびりと時間の流れのゆったりとした空間の中で自分の生活を楽しんでいるように見えた。 
 現在、小笠原はユネスコに世界自然遺産の候補地として立候補し、運動中という。一度も大陸と陸続きになったことがなく、それ故に貴重な固有種の動植物が生息すると言う自然を守り抜こうとする島民たちの情熱には深い感銘を受けた。
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