【強運の船【氷川丸物語」―人生の栄光と悲惨との目撃証人】
氷川丸は強運の船と言われている。氷川丸は1929(昭和4年)年9月30日進水、翌年4月25日に竣工した、現在の船齢80歳(傘寿)を迎え、母なる横浜港で静かに余生を送っているシアトル航路(北太平洋航路―PNW)の貴婦人である。
本船の要目は11,622総トン、載貨重量10,436重量トン、全長163m、航海速力15ノット船客定員一等76名、二等69名、三等186名、合計331名が乗船できる貨客船である。
世界的には傑出した存在ではない中級サイズの貨客船ではあるが、その接客設備とサービスの優秀さによって太平洋を往来する著名人たちに愛用され、数多くの逸話を残した船として知られている。
船名は埼玉県大宮市(現:さいたま市大宮区)の氷川神社に由来するものである。これにちなみブリッジの神棚には氷川神社の祭神が勧請され、保存船となった後も氷川神社を祀っている。
海上人命安全のための国際条約(SOLAS)に沿った(先取りした)水密区画構造、アール・デコ(Art Deco)様式のインテリア、オーシャンライナーという船型、一流シェフによる料理などのサービスの提供など、当時の先端をいく良質な船として建造された。
<戦前のシアトル航路時代>
1930年5月に太平洋を渡りシアトルへの処女航海へ向かった。排日移民法に荒れ狂う米国ではあったが、シアトルには未だ反日の嵐は及んで居らず、5月27日に無事に到着した氷川丸はシアトル市民から大歓迎を受け、3万人近い見学者が船を訪れた。6月29日には無事横浜に帰国、神戸を経由して7月6日に門司に入港した。門司港でも岸壁を整備したばかりであり、接岸第1船が氷川丸という事で、ここでもブラスバンドが繰り出され、数千人の市民が集まり帰国を祝った。
その後氷川丸のサービスの良さが評判を呼び、多くの乗客で賑わった。1932年の11次航海ではチャーリー・チャップリンが乗船、1937年の47次航海ではイギリス国王ジョージ6世の戴冠式からの帰国時、秩父宮夫妻が乗船するなど、氷川丸は華々しい活躍を続けた。 チャップリンはキャビンに籠もったまま静かに読書に耽ると言う船内生活を送っていた。郵船はチャップリンの処遇に腐心し、米国への帰国便乗船の際には、チャップリンが日本橋浜町のお座敷天婦羅屋「花長」の天婦羅が痛く気に入っているとの情報を知り、コックを【花長」に派遣して、お座敷天婦羅の手法を学ばせ、夕食時は船室にコックを赴かせて、天婦羅を振舞ったという。
また後年秩父宮妃も「私共は、往きは大西洋をクィーン・メリーで渡り、帰りはエンペレス・オブ・ブリテンでございましたが、その両方のお船の食事と較べても、氷川丸の方が私共にはずうっとおいしゅうございました。ヨーロッパでもいろいろ公式の御馳走がございましたが、どれに較べましても、郵船のは劣っていなかったと思います」と述懐されておられる。
しかしながら太平洋戦争への暗雲が立ち込める中、1941年8月、政府はシアトル航路閉鎖。氷川丸は74次航海目前であった。同年10月、日本政府に引揚船として徴用され、在日アメリカ・カナダ人を送り届け、在米・在加日本人を乗せて帰国した。
<病院船時代の白鳥のような氷川丸>
そして休む間もなく日本海軍に徴用され、海軍の病院船として使用される事が発表された。同年12月に着工開始され、同月竣工。国際法により病院船である事を示すため、船体を白色に塗られ、緑色の帯を引き、赤十字が描かれた上、夜間はイルミネーションのように電飾された。その姿は意外にも美しく、純白の氷川丸は兵士から「白鳥」と呼ばれ親しまれた。
氷川丸は第四艦隊所属の病院船となって、トラック諸島を中心にラバウル、ブーゲンビル、パラオ、チモール、マーシャル群島、マリアナ諸島、ガダルカナル、グアム、サイパン、メナド、ダバオ、バリクパパン、スラバヤ、シンガポール、サイゴン、マニラを駆け巡り、激戦の都度、海戦地に赴いて戦傷者を収容し、内地の海軍病院に移送した。
病院船時代氷川丸は28回出動し、少なくとも3万人もの患者を戦地から収容して、その命を救った。ガダルカナルで収容した軍夫達はマラリアに罹り、加えて栄養失調で、被服は泥にまみれてボロボロ。髪も髭も伸び放題、頬の肉はこけて、目ばかりギョロギョロ、まるで乞食か、餓鬼のようであったと言う。
そして終戦を迎えたとき、開戦以来の商船の船舶損害は2394隻843万トンに上った。船と共に運命を共にした船員は30529人を数えた。陸軍の損耗率20%、海軍の16%を上回る43%の戦死率であった。生き残った外国航路用の船は氷川丸のほか、高砂丸、有馬山丸など数隻に過ぎなかった。その中でも氷川丸は3回も触雷したが、いずれも軽症に終わり、敵機の銃撃も受けた。潜水艦にも遭遇している。空爆で沈没した病院船もあることを考えると、如何に運が強かったがわかる。
<引揚船寺代>
戦争が終わっても、病院船の任務は終わらなかった。病院船のまま、戦地からの復員船として、戦傷者たちを運んだ。この時の際立った変化は看護兵に代わって看護婦が乗船したことだ。
負け戦で戦地に残された患者たちは負傷者、マラリア、結核、栄養失調とさまざまだった。既に目もうつろに気息奄々、病室に運ばれ暫く横たわっていいる間に、声もなく息を引き取る者がでる。待ち焦がれた病院船の懐に抱かれて「やっとこれで帰れる」と、ほっと安堵した瞬間、生きる気力が失せたのであろう。
その後は上海、満州などからの民間人の引揚にも従事した。背に自分で負えるだけの荷物、手に必ず薬缶と持てるだけの荷物、代表的な引揚者のスタイルである。食糧はなくとも薬缶だけは水を飲むために、手から離せなかったのであろう。
送担患者のなかには、凍傷で手足がもげて、まるでダルマのような格好のものも多かったと言う。船内で死んでいくものも後をたたず、最上甲板ファンネルの後に設えた火葬場で荼毘に付された。
<シアトル航路復活>
引揚船の任務終了後は国内航路、食糧危機突破の為の臨時食糧運搬船などの任務を果たしていたが、独立回復後の昭和28年7月、氷川丸はまる11年ぶりにシアトル航路の貨客船として復活した。
復活後の氷川丸の栄光の任務はフルブライト委員会の要請によるフルブライト交換留学生輸送である。昭和35年10月1日(因みにこの日は小生が郵船入社を決めた日であった)に引退するまでの46航海(往復92航海)2500人のフルブライト留学生が乗船、多い時には1便で130人にも上った。
留学生達はフルブライト負担の一等船客として、食事も普通口にはできないような御馳走づくめ、留学生には女性も多かったので、船内で幾つものロマンスの花が咲いた。留学生には後々各界で活躍した人材ばかりで、行天豊雄(後の大蔵省財務官)は「あんな楽しい旅は、その後なかった」と述懐している。
昭和34年7月26日出帆の38次航には米加公演に赴く宝塚歌劇団の一行52名(天津乙女、黒木ひかる、寿美花代、浜木綿子など)が乗船。乗船後2日間休養したのみで、3日目にはプロムナードデッキにテ-プレコーダーを持ち出して猛練習を開始した。その航海の船内は華やいだと言う。
<海の教室・氷川丸>
昭和34年に入ると船体のあちこちに損傷が目立ち始めた。船は15~6年寿命でも長い方なのに、既にその倍の30年を越す年齢となった。
そのころ氷川丸は解体してスクラップにされるか、観光船として桟橋に係留されるかの運命の岐路に立たされていた。
社内には「氷川丸は疲れきっていいる。今更老惨の身を衆人環視のなかにさらすのは見るに忍びない。安らかな永遠の眠りにつかせてやるべきだ」との声も強かったが、神奈川県知事、横浜市長の陳情を入れて、「青少年の海事、海洋思想普及のため、海の教室として山下公園に係留、開放することとした。
氷川丸は傘寿(80歳)を迎え、今静かに出生の地で余生を送っている。思えば、これだけ人の為に働き、これほど沢山の人に愛された強運の船はあっただろうか?
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