去る7月15日から24日まで皆既日食を見るために屋久島・種子島に行ってきた。皆既日食は7月22日の午前中半日のはずなのに、何故15日から足掛け10日間もと疑問に思われるであろう。
以下は聴くも涙、語るも涙の屋久島皆既日食観測狂想曲の次第である。
<島から帰る船の手配に一苦労>
今年にはじめから「世界遺産の島」屋久島は46年ぶりに日本で見られる皆既日食の略中心線が屋久島を通るというので、湧きに湧いていた。島の観光協会は逸早く鹿児島からの高速船ジェットフォイルの座席を7/18~24まで抑えて、旅館、ホテル、民宿の宿泊とセットで売り出すことにした。3月末にはそれは全て完売したと言う。
それにあぶれた場合は如何すればよいか? それより早く島に入るしかない。これが15日に高速船で入島しなければならなかった理由である。18日より3日前の往航便は難なく確保できたが、復航便の確保には苦労した。売り出しは1ヶ月前の朝0900からと言うので、6月23日の9時から電話のボタンを押し続けたが、とにかくかからない。電話の音声案内は「この方面の電話は大変混雑して、架からなくなっています。暫くしてお架け直し下さい」と繰り返すばかり。電話が鹿児島にすらたどり着けないのだ。1130ごろ漸く鹿児島までたどり着いたが、お話中。午後繋がった時には23日、24日とも売切れですとのつれない返事。
「18日に入島する。行きの切符だけ売って、帰りは如何してくれる」と毒づいたところ、「23日の種子島便が10席ほど空いている。23日に種子島まで行って、翌24
日1番の0710発の鹿児島行きに乗ったら如何か」との裏技を教えてくれた。
<九州新幹線>
鹿児島まで行くなら当然飛行機と言うのが常識であろう。しかし、こちらは何しろ「金はないが、時間だけはふんだんにある。断固ジパング・クラブの3割引き運賃を利用して、鉄道で行くことにした。
東海道・山陽新幹線は珍しくもないが、部分開通している九州新幹線は目新しかった。インテリア、座席の背もたれなどが全て木目調で統一されており、心が和む。また、外国語のアナウンスは、英語ではなくハングル語と中国語のアナウンスであるのも面白い。アジアに近接し、アジアに開かれた九州の地域性なのだろうか?
自宅のある読売ランドを0547(新横浜0649)に出発して、1434には鹿児島中央駅に着いた。1470キロを8時間弱で走行するのは、やはり素晴らしい。
<世界自然遺産の島―屋久島>
実は屋久島には1992年に、日本百名山を目指す山行の一環として、宮之浦岳(1936m)に登るために訪れたことがある。その頃にも縄文杉など屋久島杉のことや、海上アルプスと言われる高山は有名ではあったが、まだまだ一部のマニアが訪れるだけの閑散とした島だった。その後屋久島が世界自然遺産への登録が認められた所為か、状況は一変していた。山のように沢山の人々が次から次へと観光客が縄文杉へ、縄文杉へと巡礼みたいに歩いていく。 小生は宮之浦岳にも登ったことがあるし、その下山路で縄文杉も見たし、今回の屋久島行きには何の具体的な計画もなかった。日食までの数日間、ユースホステルでのんびり本でも読んでいるかと考えていた。
ところが宿に着いた途端、その幻想は打ち砕かれた。物凄く蒸し暑い。こんなのではとても部屋に居られない。さて如何するか? 足がないと動きが取れないので、日食までの6日間軽自動車を連続でレントすることにした。
YH(ユースホステル)には、やはり皆既日食を見ようと日本中のみならず、シンガポールで働くアイルランド人や、ワシントンDCで働く米海軍の将校、ドイツ人老夫婦など、多種多様な人々で沸き立っていた。皆既日食までの6日間を如何に過ごすか?などと言う詰まらない心配は杞憂となって吹き飛んでしまった。
談話室では「今日は縄文杉まで行ってきた」とか、「紀元杉を経由して太忠岳に登った」とか、「白雲雲水峡は良かった」「宮之浦岳から永田岳のコースは良かった」「昨晩はウミガメの産卵を見てきた」とかと言う情報交換が飛び交っている。その熱気に煽られるように「やはり我々もどこかに行かなければ。負けてはいられない」という気分になるから不思議だ。
小生は17年前に縄文杉へは行っていたが、家内は未だったし、やはり此処まで来て縄文杉を拝まないのは失礼だと思い、0330に起床して、縄文杉に出かけることにした。登山口には駐車スペースが少なく、早く行かないと遠いところに車をとめて歩行距離が長くなると言うので、先手を打つことにしたのである。0400YH出発。屋久杉ランド入り口の弁当屋で弁当購入。0500ごろ登山口到着。0523登山に出発。0700過ぎ大株歩道入り口で弁当を食べる。ウィルソン株を経て1010縄文杉到着。1030縄文杉発。1450荒川登山口帰着。標高が低い所為もあって、蒸し暑いし、延々と続くトロッコ軌道敷の往復も単調で詰まらなかった。大株歩道の登山道もかなりのもの。往復22キロ、歩数36000歩は力ある。登山ガイドに率いられたグループが続々と登ってくる。聞けば17年前ガイド協会発足時には17人に過ぎなかったガイドが今や250人もいるという。殆どが本土からやって来た外来種だという。世界自然遺産への登録は結構商売の種になっているようだ。頂上を極めるわけでもなく、登山路は単調。余り達成感のない詰まらない山行と思われるが、このキツく、余り面白くない登山路にガイドに率いられた観光客が押し寄せるのは不思議だ。登山と言うよりも、むしろ世界自然遺産教の巡礼と言うか、難行苦行に思えてくる。その日にも熱中症患者が何人か出たそうだ。
翌々日に出かけた白谷雲水峡への山行ははるかに充実していた。朝食後0800ごろYHを出発。0900頃登山口着。0920登山開始。苔が綺麗な渓谷に沿ってを遡上。くぐり杉、七本杉、もののけ姫の森、を経て辻峠から太鼓岩に登る。太鼓岩到着1110。頂上に着いた時は少し雲がかかっていたが、暫くすると雲も取れて、宮之浦岳、黒味岳、石塚山などの稜線が綺麗に見え、満足。1130下山にかかる。弥生杉経由で登山口まで戻る。登山口着1340。歩数は13500歩。
島には「千尋の滝」と言うのもあり、宮崎駿は屋久島で「もののけ姫」や「千と千尋の神隠し」の着想をを得たようだ。不覚にもその事実はこの島に来るまで全く知らなかった。
屋久島に7日間滞在してみて、一周105キロのこの島は日本の縮図だと思った。小さい島に2000mの高山が聳えている結果、太平洋から押し寄せる湿気を帯びた空気を高山が受け止めて、1年に400日雨が降ると言われるくらい水に恵まれ、深い渓谷、高い山、ウミガメが産卵に訪れる綺麗な海浜、海辺の露天風呂などにも恵まれ、旅人を飽きさせない。屋久島は世界遺産登録を契機に観光立島に乗り出し、それに成功しつつある。少子化に悩み、それに伴う「もの作り」生産能力の空洞化によって、日本本土も屋久島同様に豊かな自然を売り物にする観光立国しか生きる道がなくなるのだろうか?
<雨に祟られた皆既日食観測>
7月22日は、いよいよ待ちに待った皆既日食の日。ところが朝から猛烈な雨。様子を見ていたが、少し小降りになったので、観測地点の八幡小学校の校庭に向う。かなりの子供達や大人が集まっていたが、満員というわけではない。校庭には京大の天文学科の大学院生と花山天文台長の教授が来ていて、解説とカウントダウンをやっていたが、相変わらず雲は厚い。しかし皆既の時間中は結構暗くなったのは見ものだった。第3接触後、僅かな瞬間だが、太陽が薄く見えた。かくして皆既日食騒動のお祭りはあっけなく終わった。島内各地の観測スポットに散った人たちの情報を総合すると、永田の「いなか浜」が皆既の時間は短いが、薄くだが殆ど太陽の像が見え、写真も撮れたとか。しかし、最高の観測地点とされたトカラ列島の悪石島は突風が発生し、竜巻の恐れもあるので、観光客は体育館に避難したとか。それよりは大分ましだった。
夜の残念会でペアレントが芋焼酎を持参して、飲み会になったが、山崎パンの研究員という男性は荒れに荒れた。「みんなは、あれで残念ではないのか? 真っ暗になるのを見ただけで満足だと!」「来年から登れなくなるエアーズロックに行くか、皆既日食にするかで迷った末、時間をやり繰りして屋久島に来たのに、これは酷すぎる」と言う訳だ。
7月22日に至る7日間が全て快晴で、また翌日の23日も晴だったのだから、確かに天を恨みたくもなる。地元の人は「余程本土から日頃の行いの悪い人が沢山やって来たからではないか?」と悪態をついていた。しかし、それも天命と諦めるのが日本人の淡白さと言うか、諦めのよさなのだろう。
しかしながら、山崎パン氏のような人にはそんなことを言ってはいけない。ますます火に油を注ぐばかりだ。「残念、無念。何たる不条理か!」と輪をかけて悲憤慷慨してみせるしかない。
次の皆既日食は26年後の2035年9月埼玉県北部で見られるようだが、齢96歳では殆ど生きてはいないだろうし、生きていても皆既日食を見ようという好奇心が残っているかどうか疑問だ。
それよりも3年後2012年5月21日関東一円でも見られる金環食に期待をかけるほうが現実的と思われる。今回まるで出番がなかった「日食観測眼鏡」が役に立てばと願っている。
<種子島宇宙センター>
船の座席が取れなかったために、仕方なく立ち寄った種子島だったが、島の南端の「宇宙開発機構」の種子島宇宙センターは見ものだった。
高速船が着桟する西之表港からレンタカーで一路南下、鉄砲伝来の地「門倉岬」を訪れた後、1530からの施設案内ツアーに参加。H2ロケットは予想外に大きい。種子島宇宙センターはケネディー宇宙基地の1/10の規模だが、世界一景色の良い打ち上げ場だと言う。
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翌日、大雨が降りしきる山口県を駆け抜ける「ひかりロードスター」で帰宅の途についたが、振り返ってみると中々充実した10日間であった。何よりも日食までの6日間ユースホステル談話室で語り合った仲間たちとの濃密な時間の共有は貴重だった。中には外人も脱サラでSF作家を目指す中年のオジサンや、アニメの絵コンテも描くというグラフィック・デザイナーなど、日頃会えない人種に会えたのも、勉強になった。
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