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November 26, 2006

スエズ危機から50年

  スエズ動乱から50年:その後国際政治の構造を決定した11日間
     ―記憶されるべき歴史の教訓とは―

 スエズ危機が勃発したのは私が大学受験準備に追われていた高校3年の11月であった。今振り返ってみるとその時のスエズ動乱は一つの時代の終焉と次の時代の到来を告げる転機となったように思える。この時以降、欧州にとっても、米国にとっても、また中東世界にとっても、全く新しい時代に突入することになる。
 スエズ危機から50年たった今、改めてスエズ危機のプロセスを振り返りって見るのも意味のないことではあるまい。
 安倍首相はチェンバレンの融和政策を弾劾したチャーチルを大変尊敬していると言う。しかし、イーデンが宥和政策の責めを負うのを警戒する余り、歴史の教訓の解釈を誤ったと言うのと同じ轍を踏まないよう祈りたい。

<帝国主義の終焉とEU結成への決意>
 1956年7月26日エジプトのガマル・アブドル・ナセル大統領はアレキサンドリアのん熱狂的な大群衆を前に1882年から1922年までエジプトを支配した英国帝国主義を痛烈に非難する演説を行った。その演説の中で、ナセル大統領は歴史を振り返り、運河の建設者フェルディナンド・レセップスの名前を13回も口にした。実はこれがエジプト軍のスエズ奪取開始と運河国有化宣言の暗号だったのである。これは同時に欧州と中東及び米国の政治が新しい時代に入ったことの号砲でもあった。
 スエズ危機は欧州2列強、英国とフランスの帝国主義的影響力の屈辱的な終焉を決定的なものとした。英国のアンソニー・イーデン首相は失脚したし、フランスでは第4共和制の欠陥を白日の下に曝すことになり、シャルル・ドゴールの下での第5共和制への道を速めた。西側諸国連合内での米国の覇権は誰の目にも明々白々の事実となった。また、この危機を契機に欧州人の多くの人々に今日の欧州連合(EU)にまで発展した国家連合の創設への決意を固めさせた。スエズ危機は汎アラブ民族主義をかきたて、イスラエルとパレスチナ間の紛争をイスラエル・アラブ間の紛争に一変させてしまった。更には同じ年に起こったハンガリーの反乱の鎮圧にソ連が乗り出すのを結果的に助けると言う派生的な事態をも引き起こした。
 その当時欧州の政治家の多くが他国の政治に介入する権利を有していると考えていた。また彼らの多くが1930年代の宥和政策の失敗の記憶に脅えていた。ある種の挑発に直面した時、例えそれが軍事力による領土侵略でなく、スエズ運河のような外国資本所有資産の国有化というような全くの法的な挑発に過ぎなくても、宥和政策の失敗を繰り返すまいとする欧州の政治家の本能は戦争にまで突き進まざるを得なかった。最終的には英仏両国と共謀者イスラエルとの侵略の試みは米国の共和党大統領で戦争の英雄アイゼンハウアーによって阻止された。この冒険には陰謀と虚言、天罰と数え切れないほどの教訓とが含まれている。

<アスワン・ダム建設資金の米国の援助中止が発端>
 エジプトでは英国はその人種主義的で、傲慢なやり方の所為で、次第に嫌われるようになっていた。1951年に政権の座に復帰した偉大なる帝国主義者ウィンストン・チャーチルでさえも民族主義の波には最早抵抗できないと観念していた。1951年以降、英国はスエズ運河付属地に閉じ込められ、完全撤退を求めるエジプト非正規軍の嫌がらせを受け続けた。終には1956年6月英国軍の最後の部隊が運河地区から撤退した。
 しかし、英国とエジプトの関係は改善しなかった。一方ナイル河上流のアスワンにダムを建設する資金の借款を米国が取り下げたことにナセルは激怒していた。このプロジェクトはエジプトを近代化しようとするナセルの野心の中核をなすものであった。しかし、米国の国務長官ジョン・フォスター・ダレスはこのダムの建設が新しく独立したエジプトの国家経営資源に過度の負担をかけることになると考えた。
 またナセルに不信感を懐き、自らも経済的に困窮していた英国も借款提供を取り下げた。ダレスはロシアにダムの面倒を見させるのが最善の策であると考えた。しかし、ダレスはナセルが直ちにスエズ運河の国有化という暴挙で反撃してくるとは思っても見なかった。「英国と米国がアスワン・ダム建設のために約束した借款に代わるものとしてエジプトにとってスエズ運河の収入が必要となった」とナセルは主張した。
 英国の国論はでは「強奪者ナセル」を非難する声で一致していた。ナセルは1930年代のヒットラーとムッソリーニに喩えられた。ナセルがこれを旨くやり遂げたら、ナセルは、そして大胆になったかつての植民地の指導者達は何処まで突き進むであろうか? イーデンは「スエズ運河は英国の偉大なる帝国としての生命線である。特に石油輸送には欠かせない。ナセルに我々の気管に手を突っ込ませる訳には行かない」と主張した。
 フランスも同様に激しく反応した。しかし、それは英国とは別の理由によるものであった。先ず第一にフランスはパリに本社を置くスエズ運河管理会社の株を持っていたからである。二番目の理由としてフランスはアルジェリアでますます始末に終えなくなりつつある植民地戦争を戦っていた。新しく発足したモレ政権は第4共和制が召集できる限りの兵力を投入してアラブの反乱を鎮圧しようとしていた。1956年の夏には40万人の兵力をアルジェリアに派遣していた。ナセルはアラブの叛徒を支援していたので、フランスは英国以上にナセルを追っ払うのに熱心であった。そこで、英国とフランスはエジプトへの軍事侵入と運河地区の再占領計画を共同で開始した。

<米国の反対とイスラエルとの秘密共同謀議>
 しかし、英仏両国の武力行使は米国、特にアイゼンハウアー大統領の反対に直面してしまった。アイゼンハウアーは最初から両国の武力行使には反対であった。アイゼンハウアーの心配は11月の大統領選挙であった。彼は平和の大統領として、再選されたいと考えていたのである。彼は米国の選挙民達が自分達と直接関係の無い国際紛争に巻き込まれることを望んでいないことを知っていた。
 またアイゼンハウワーは米国を大英帝国から独立させた反帝国主義感情にも動かされていた。更には新しい冷戦状況の中で、英仏両国がエジプトを痛めつけると、アラブ諸国、アジア諸国及びアフリカ諸国を共産陣営に追いやってしまうことになるのを恐れたのである。アイゼンハウワーとダレス国務長官は英仏両国を実りの無い一連の会議と協議の罠に閉じ込めようとした。
 英仏両国は自分達の軍事行動が確たる法的根拠を欠いていることを自覚していたので、しぶしぶ会議に参加した。両国は軍事行動への弾みを失いつつあった。それが米国の狙いでもあった。しかし、イーデン英首相は運河国有化計画をご破算にさせるのみならず、体制変化即ちナセルを失脚させることを望んでいた。
 その時イスラエルが窮地からの脱出方法を提供した。9月30日にイスラエルの代表団が秘密裏にフランスを訪れ、開戦理由の捏造を提案した。それはイスラエルがエジプトに侵入し、運河地区に急ぐ。これにより英仏軍はエジプト進軍が可能となり、イスラエル、エジプト両軍を引き離す平和維持軍のふりをして、スエズ運河地区を占領し、運河航行の自由を保障すると言うものであった。この計画がイーデンに提出された時、彼はこれに飛びついた。かくして共同謀議が生まれた。詳細はパリ郊外のセブールの秘密会議で合意された。
 今や英仏両軍には進入する口実が出来た。イスラエルはこれによってガザ地区からイスラエルへの侵入をエスカレートさせつつあったエジプトを罰することが出来る。また、この時以降、欧州主要国がイスラエルの大義に取り込まれることになる。この時点までフランスはイスラエルとその隣国に公平に付き合おうと努力していたし、英国はむしろアラブ諸国寄りであった。

<お粗末な共同謀議計画>
 ほんの一握りの人間だけがこの共同謀議計画への参加が認められた。その大部分の人が最初からこの計画は気違いじみていると感じていた。エジプト侵入の口実が極めて浅薄で、直ちに吹き飛ばされてしまうのではないかと危惧した。現実に起きていることを隠蔽するために、フランスよりも英国が特に米国との関係で、嘘と偽りの泥沼に落ち込んでいった。英国議会も騙された。イーデン首相とロイド外相は下院で「イスラエルとの事前の合意など全く無かった」と証言した。
 取り決めに従って1956年10月29日イスラエルの落下傘部隊がシナイ半島を急襲した。急襲に驚いたふりをして、英仏両国はイスラエルとエジプトに直ちに休戦するようにとの最後通牒を送った。エジプトがこれを拒否すると、英国空軍がエジプトの空軍基地への爆撃を開始した。11月5日には英仏連合軍がスエズ運河地区への上陸作戦を開始した。そうすればナセル政権が転覆すると考えたのである。
 何も知らされていなかったアイゼンハワーはかつての同盟国に完全に裏切られたと感じた。「列強ともあろうものが、こんなにお粗末なことをやらかしたのを見たことがない」と側近にもらし、彼はこの計画を断固として阻止しようと決意した。
 米国は英国の脆弱な経済を突いた。英国がエジプト侵入を中止しなければ、米国はIMFが英国に緊急融資を与えるのを許さないと主張した。迫り来る金融破綻に直面して、11月7日イーデンは米国の要求に屈して、侵入作戦を中止した。英国軍は運河への進軍の道なかばで立ち往生せざるを得なかった。フランスは激怒したが、結局作戦中止に同意せざるを得なかった。フランス軍は英国軍の指揮下にあったからである。
 米国は国連を舞台にうまく立ち回った。11月2日には停戦を要求する米国の決議案が64対5の多数で可決された。ロシアは米国案に賛成票を投じた。安全保障理事会での英仏の拒否権行使を封じ込めるために、緊急総会が開かれ、運河地区の停戦を監視するために国際緊急軍を組織すると言うカナダの提案を採択した。これが平和維持のためのブルーハット部隊の魁となった。

<フランスのEU結成への転進と英国の後遺症>
 フランスはスエズ危機から極めて明解な教訓を引き出した。フランスは平気で人を裏切る英国人に二度と頼る訳には行かないと決意した。欧州の最強国である英国は今後も米国との特殊関係を常に欧州独自の利益よりも上位に置こうするだろうと感じた。そして、フランスにとって米国は信用できないが、と言って真正面からは対抗できない迷惑な優越者となった。
 そこでフランスは他にもっと安定した同盟国を探さなければならなくなった。それは苦も無く見つかった。11月6日モレ首相がイーデンから「侵入計画を中止せざる得なくなった」との電話を受けた時、モレは偶然にもアデナウアー独首相と同席していた。アデナウアーは「フランスも英国も米国に対抗できるような力はない。勿論ドイツにもない。世界で決定的な役割を演じ得る道が一つだけ残されている。それは欧州を統一することである。我々は時間を空費すべきではない。欧州統一こそフランスの復讐となろう」と力説したと言う。
 このようにして6ヶ国からなる欧州共通市場が生まれ、それが今や25ヶ国が加入する欧州連合(EU)にまで発展した。その基礎となるローマ条約はスエズ危機の翌年の1957年に調印された。そして、フランス、とりわけシャルル・ドゴール大統領は英国をEECから出来るだけ長い間締め出しておこうとした。英国の加盟が実現したのは1973年、即ち16年後のこととなった。英国は米国から送り込まれたトロイの木馬になりかねないと警戒したのである。フランスは独自の核抑止力を零から築き上げることによって、真の意味で米国からの軍事的独立を勝ち取り、1966年にはNATOの統一指揮機構から脱退した。 フランスは欧州の公然たるリーダーとしての地位を確立し、米国に対抗する形での普遍的価値を提唱するようになった。
 英国はスエズ危機によって一番傷ついた。イーデンは間もなく辞職し、健康も損なわれた。イーデンの評判は地に落ちたのみならず、彼の嘘と言い逃れは、英国は偽善的であっても常に公明正大であるとの評判を傷つけた。そしてスエズ危機は英国の第2次大戦後も、しぶとく残存していた帝国主義的装いを一挙に吹き飛ばし、英領植民地の独立を早めた。 「英国には為し得ないことなどない」と言う信念から「英国は何も為し得ない」と言う神経症的な思い込みに陥ってしまった。この状態を後のサッチャー首相はスエズ・シンドロームと呼んだ。1982年にサッチャーがフォークランド奪回に奮闘したのも、英国をスエズ危機の悪夢から解放しようとする試みだったのである。トニー・ブレア首相は躊躇することなくサッチャーの成功を踏襲して、シエラレオネやバルカン、イラクに英国軍を派遣した。
 しかし、米国の支持なしには決して行動することはなかった。英国にとってスエズ危機の最大の教訓は英国は再び米国から独立して行動すべきではないと言うことであった。欧州のリーダーになろうと努力したフランスとは異なり、大部分の英国の政治家は米国の側で第2バイオリンを演奏する地位に満足するようになった。

<超大国米国の登場とソ連の中東進出、イスラエル国家の変質>
 アイゼンハワーは大統領選挙に勝った。スエズ危機は米国の世界超大国としての新しい地位を確固たるものとした。米国に挑戦できるのはソ連だけとなった。また、スエズ危機は米国がイスラエルに強硬な行動をとった最後の事件となった。アイゼンハワーが怖れたように英国が混乱のうちに撤退していった空白を埋めるようにロシアが中東に進出してきた。ロシアはアスワン・ダムの建設資金融資に踏み込み、冷戦が北アフリカとエジプトにまで広がった。そしてイスラエルは米国に一層緊密に結び付けられるようになった。
 1956年以前にはイスラエルは軍事的に脆弱であったが、アラブ世界以外では道義的にも政治的にも後ろ指を指される存在ではなかった。スエズ危機の時のシナイ半島とガザの占領が次第にイスラエル国家を変質させ始めた。このときの占領こそがイスラエルが本来の国境を超えて進出した最初の事件となった。1956年にはイスラエルは米国の圧力で速やかに撤退することを余儀なくされた。しかしそれ以降の米国の大統領はアイゼンハワーがスエズ危機で演じたように、再びイスラエルの顔を潰すようなことはしなかった。

<ナセル主義の勃興とその錯覚>
 スエズ危機の最大の勝者は短期的にはナセル大統領であった。スエズ危機以前にはナセルは従来の支配層のみならず、共産主義者やイスラム同胞団の過激派からなる執拗な反対派に悩まされていた。「獅子の尻尾を引っ張って、首尾良く獅子を追い出した」と言うので、異常な人気を獲得した。反対派は逃亡するか、沈黙を余儀なくされるか、或いは監獄に収監された。ナセルのエジプトはアラブ民族主義の旗手となり、第三世界全体の解放運動の灯台となった。ナセル主義の夢は汎アラブ民族主義の波を鼓舞し、アラブ世界全体に似たような旗、政治宣伝、秘密警察を備えたナセルと瓜二つの指導者を沢山生み出した。サダム・フセインもその一人である。ナセル自身は1967年の第2次中東戦争でのイスラエルの圧倒的な勝利によって大きく権威を傷つけられたけれども、ナセル主義の体制はエジプトでも、その他の中東諸国でも政治支配の有効なシステムとして生き続けた。
 ナセルの1956年の勝利はそれまでの欲求不満を一気に吹き飛ばす解放の瞬間としてアラブの記憶の中に生き続けることとなる。サダム・フセインのイラン浸入その後のクウェート侵略などの劇的な行動はナセルの勝利によって、鼓舞されたものであることは疑いを入れない。しかし事実は異なる。ナセルの勝利はナセルと言うアラブの超人によって勝ち取られたものではなく、超大国の干渉によって与えられたものに過ぎない。

<歴史の教訓から何を学ぶか?> 
 このように見てくると、米国の超大国としての地位の確立、欧州連合の発足、複雑怪奇な中東情勢、ブッシュの忠実なプードルと言われる米英の特殊関係など、今日の国際政治を規定する要因の大部分がこのスエズ危機を原点としていることが判る。
 47年後の2003年のイラク浸入の前の数ヶ月間には、フランスは攻守所を代えて1956年当時の米国の役割を演じた。ただジャック・シラク大統領は1956年当時のアイゼンハワーように止めの一撃を加えることは出来なかった。
 米国やフランス、そしてまたイスラエルは歴史の教訓から何を学んだのであろうか? 米国とフランスに主導される欧州連合との亀裂は修復できなままに広がって行くのだろうか? 超大国米国の蹉跌は遂にはパックス・アメリカーナの終焉の前触れなのだろうか? イーデンは独裁者ヒットラーとムッソリーニに対するネビル・チェンバレン首相の宥和政策を断固拒否して、1938年外務大臣の職から名誉の辞職を敢行した。イーデンはナセルをムッソリーニの再来と見ていた。ミュンヘン協定締結時の状況とスエズ危機の際の状況は全く違うにも拘わらず、イーデンは宥和政策失敗の責めを負うのを避けようと断固決意したのである。
 「過去を忘れるものは同じ過ちを繰り返す運命にある」と言われるが、むしろ「過去の解釈を間違えるものは現在を台無しにする」と言う方が、更に正確かもしれない。

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November 08, 2006

高校「世界史」履修漏れ問題について考える。

この件についての小生の感想は「大学の責任はないのか?」と言うことです。

ご存知のように日本の近代アカデミズムの成立は全て西洋の学問を輸入し、それを自家薬籠中のものした血の滲むような努力に結果であったことは言うまでもなりません。西周の翻訳語:哲学、社会、経済、国家、人民、共和主義、民主主義、共産主義など、これは中国語ではなく和製漢語です。現代中国の学問など日本からの輸入漢語なくしては成り立たない状況ですし、第一「中華人民共和国」と言う国号自体からして、全て日本からの翻訳語で構成されている始末です。

閑話休題、文科系の学問の理解には西洋史の基礎知識がなければどうにもならないと言うのは学界の常識です。英国のマグナカルタや名誉革命、フランス革命やアメリカ独立革命などを知らずには基本的人権も参政権も、民法すらも本当の理解には至らないでしょう。

その所為か、わが母校姫路西高ではかつて手厚い世界史シフトを敷いていたのを懐かしく思い出しました。確か規定では世界史、日本史、一般社会(今は現代社会とでも言うのか?)の全てが週5時間のでよかったのに、一般社会の5時間を3時間に減らして、2時間を世界史にまわして、7時間の履修体制を組んでいたように記憶しています。

学校の指導も大学の試験は世界史、日本史で受験するのが当然と言う雰囲気で、世界史は範囲が広く、ボリュームが多くて大変だから、止めたほうが良いなどという合格至上主義の受験指導はなかったと記憶しています。在学中は余り感じなかったけれども、わが母校はLiberal Arts(学問)の本道をしっかり踏まえた伝統校の良さを色濃く残した学校で「流石」と、感謝の気持ちで一杯です。そのような雰囲気に悪乗りした訳でもありませんが、小生などは旺文社の吉岡力「世界史の研究」を熟読したのは勿論として、ランケの「世界史概観」やH.G.ウェル"A Short History of the World"、林健太郎「世界の歩み」などを読んで粋がったというようなこともありました。お蔭で大学入試では世界史・日本史の社会科目で200点中168点と言う得点が得られ、世界史の短文記述式の問題で「こんな立派な解答があった」と言う試験官の講評があって、「それは俺の答案に違いない」と独りで悦に入ったのを懐かしく思い出します。

このような立派な高校の考え方が厳に存在したと言う事実の一方で、ボリュームが大きく大変だから、世界史など選択するなと指導するのみか、教えてもいないなどと言うのは言語道断であると考えます。

それは兎も角、大学の責任も重いと考えます。現在、文科系学部の入試に社会科目2科目を課しているのは東大と京大だけだと聞いていますが、本当なのでしょうか?
世界史が全ての文科系学問の基礎であるならば、大学は堂々と試験の必須科目として世界史を課せばよいのではないでしょうか? かつて旧制東京帝国大学法学部の入学試験は語学と西洋史だけであったと聞いたことがあります。

また我々の受験時代の京大工学部は数学と物理・化学の配点を他の科目の2倍にしていました。これだと数学の問題の一題が他の科目(例えば英語の)全体に匹敵することになり、数学と理科に強くなければ絶対に合格しないと言う状況を作り上げていました。一橋大学は英語と数学に物凄いウエイトを懸けていました。このように考えると今回の世界史履修漏れは大学側の責任も重いと考えざるを得ません。徒に受験生に媚びて、受験生の負担を軽くするのが能ではないと考えます。

今回の履修漏れ騒動の議論の中では高校の責任、文科省の責任だけが論じられて、大学の責任が問われていないのは極めて奇妙な感じがします。改めて国民的な議論が起きて、この問題が正道に戻ることを期待したいものです。

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