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April 25, 2005

同窓会で海外クルーズは奇跡?

今年の6月25日から12日間の日程でJ3会と称する同窓会(語学のクラス―どこの学校かは想像に任せる)が夫婦同伴でMSCアルモニアなる豪華客船の最上級のキャビンに乗船しヴェネチアを出帆、アドリア海、エーゲ海を巡ってベネチアに戻り、ベネチアに2泊して、1000年の歴史を誇る「海の都」を心行くまで探訪することになった。

6/25成田発、6/26ベニスで乗船、6/27バーリ入港、6/28コルフ入港、6/29サントリーニ入港、6/30アテネ入港
7/1カタコロン入港、7/2ドブロブニク入港、7/3ベニス帰港、7/4ベニス滞在、7/5ミラノ経由帰国の途に、7/6成田

「これって何処かおかしいいよ」と言う見方と、「奇跡だ」と言う見方がある。どちらが正しいのか自己満足でも、自虐史観でもない一般の方々のご意見を伺いたい。

この企画には長い歴史がある。クラスメートの中にJALに勤めていたのがいて、営業政策の為もあってか、「そろそろいい年になってきたのだから、これからは夫婦で大いに海外旅行などを楽しむべきだ」 と言い始めた。 

最初に「夫婦同伴で台北に来ないか」とのお誘いが、当時台北の副支店長をしていた件のJAL氏から発せられたのは多分平均年齢が40台最後か、50歳台の初頭だったのだろう。「職務上3~4日も仕事を休むわけにはいかない。第一その時に最重要顧客の葬式でもあったらどうするのか?」と言う仕事人間そのままの極めてまじめな反対から、「夫婦同伴で行くということは、まるでレストランに弁当を持っていくようなものだ」との不穏当な反論もあって、たちまち没になってしまった。

それから、数年経ってほぼ皆が第一の職場を定年退職になる頃に再度JAL氏からその話が持ち出された時には雰囲気が一変していた。「それも良いなー」と衆議一決。初めての台湾旅行に夫婦で飛び立つことになった。その後味をしめた女房どもの支持もあって、ほぼ2年毎に台北、韓国、南台湾、ハワイ、チェンマイ―バンコク―アンコールワットと回を重ねてきた。

今回のクルーズはその集大成とも言えるイベントであるが、本来はあるツアーの時の夜の宴会で酔った勢いで「2005年頃には皆完全退職しているだろうから、その時のために蓄財に励み、夫婦で世界一周クルーズに行こうではないか」と無謀な決議をしたらしい。しかし現実は未だ現役で働いているのもいるし、先立つものの関係もあって、12日間のアドリア海・エーゲ海クルーズに矮小化してしまった。

最初は19人参加と言っていたものが、途中脱船者が出て、15人に縮小してしまったが、とにかく長丁場の大衆討議を経て、日程が決まり、とにかく冒険航海乗り出せる運びとなった。

先ずは「目出度し、めでたし」と言えそうだが、これって異常なのだろうか?それとも奇跡なのだろうか?

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April 20, 2005

反日デモと義和団の乱

 昨今の激しい反日暴動を見ていると、五四運動よりもむしろ20世紀初頭の義和団のことを連想してしまう。その排外主義、暴力、背景となっているといわれる社会的矛盾、陰に陽に伺われる政府の肩入れ、今日の反日暴動と義和団の乱とは瓜二つではないか? 

 義和団 というのは1899年中国,山東省で起こった反キリスト教(仇教)暴動をきっかけに,華北一帯に広がった反帝国主義運動の主体。当時の社会矛盾,キリスト教布教,ドイツの進出などへの反感から,〈扶清滅洋〉を唱え,武力的排外運動を行った。1900年6月には北京および天津に進出。河北,山西,河南,満州の各地に波及し,教会襲撃,宣教師・外国人の迫害を行った。清朝が義和団を支持し対外宣戦を布告したため,暴動は一層激しくなった。このため日本を含む8ヵ国(英,米,独,仏,ロシア,イタリア,オーストラリア)連合軍の出兵となり,8月には鎮圧された。1901年清は列国と辛丑(しんちゅう)条約(北京議定書)を締結,外国軍隊の駐留を認めるなど半植民地化が進展した。
 
 これを見ると20世紀初頭と中国は、それから21世紀の今日までの100年間でどれだけ進歩したのか、極めて疑わしい。「歴史に学べ」と他国に説教するくらいなら、何故20世紀初頭の中国が馬鹿げた排外主義を政府が支援し、その結果諸外国の干渉を招き、結果は半植民地に陥る契機となったことを謙虚に歴史の教訓として学び取るべきではなかろうか?

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April 10, 2005

海の友情

 中国・北京での反日デモは4月9日午後、一部の参加者が暴徒化し、日本大使館や日本大使公邸、東京三菱銀行北京支店への投石、日本料理店への破壊行為などに発展したと報道されている。

最近慶応大学の阿川教授の書かれた「海の友情」という本を読んだ。第2次大戦中南太平洋の海で、死力を尽くして戦った米海軍と日本帝国海軍の生き残りのセイラー達が、死力を尽くして戦ったもののみが知る相手への敬意をベースにして(米海軍の将官は来日した時、必ず宗教の違いを超えて靖国神社に参拝するとも聞いた)、戦後お互いに深い友情を培いながら日本海軍=海上自衛隊の再建に邁進する物語である。
 この物語を読みながら、8月の初めに北京で開催されたサッカーの第13回アジアカップで日本選手が3‐1で中国を破り、優勝した時の中国の観客の異常とも言える反日行動と、その後もますます泥沼化する反日デモを思い出してしまった。
 真珠湾を奇襲攻撃し、マニラや、ラバウル、ガダルカナル、レーテ沖、沖縄と米海軍側の人的損害も莫大であったにも拘わらず、何故両者の間には深い友情が生まれ、片や中国とは国家斉唱にはブーイングで、場外では日の丸が焼かれ、選手を乗せたバスが襲撃され、日本大使館、日本の銀行の支店、日本料理店が投石されると言う悲劇が生まれるのか? 中国とは国交回復以来多額の経済援助をつぎ込み、それが今日の中国の経済発展の基礎となっているにも拘わらずである。 やはり真剣に戦ったもの同士が懐く相手への敬意が中国との間では欠けているのが一因であろう。中国との間では海戦は勿論、陸上での正々堂々の大会戦もなかった。中国で行われたのは果てしないゲリラ戦でしかなかった。
  しかし、それよりも大きいのは海洋民族と大陸民族との違いであるようにも思える。海洋国は大陸国に比べて、気候も温和であり、そこで育まれる民族性も温和で、執念深くなく、中庸、公正なのではないかと思えてくる。海は時には荒れ狂う。時化がおさまるとまた平穏な海に戻る。海上の戦闘で相対峙しても、嵐が過ぎてしまえば、共に海の仲間としての友情が戻ってくるのではないか? 
 中国は経済大国としての平和台頭を目指していると言う。しかし経済大国は何れも海洋通商国家として、相互信頼と相互依存の関係を築いたことがその基礎となっている。次代の経済大国を目指すのであれば、中国は武士道にも似た海洋民族のエートスを理解し、身に付けなければなるまい。

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April 03, 2005

韓帝2600年の恨み?―隣の国で考えたこと―

                                         
 「失われた10年」で未だに閉塞感に苛まれているわが国がまだ隆々と輝いていた頃の1984年の夏から晩秋にかけて、新しい「コンテナターミナルの最適立地調査」と言うプロジェクトの為に韓国の海運港湾庁のコンサルタントとして雇われて、約半年ばかり韓国に滞在して働いたことがある。
 その頃の韓国はNIES(新興工業国)の雄だとか、アジアの3匹の竜だとかもてはやされ、彼ら自身も1988年のオリンピック(パルパル・オリンピック)の招致に成功し、至るところの官公庁のビルに「先進祖国の創造」とスローガンが垂れ幕として掲げられ、先進国クラブたるOECD加盟を視野のうちに捉え、意気軒昂たる雰囲気につつまれていた。
 このところ北朝鮮の拉致家族の問題が連日新聞テレビで報じられ、国民の関心と論議を一手に集めている感があり、それに触発された所為か、20年近くも前に隣の国で考えたことをつい思い出してしまった。

<昼は反日、夜は親日> 
 ソウルでのプロジェクト・チームの事務所は所謂ソウルの中心部である南山北麓の中区の官公庁,ビジネス街ではなく、郊外である漢江の南の江南区にあった。東京ではさしずめ葛飾区か荒川区と言ったところだろうか? 欧米人は勿論日本人の姿すら全く見かけないような地域であった。
 我々(私と運輸省港湾局から国際臨海開発センターに出向していた技官)二人は生活の場として漢江に面したリバーサイド・ホテルに居を構え,そこから事務所に徒歩で通うことにした。日本からのビジネス客や観光客でごった返す都心部のホテルとは違いホテルでは殆ど日本人を見かけることもなかったし、昼食を摂りに行く食堂でも勿論外人の姿を見かけることはなかった。つまり全く韓国人社会の中にどっぷりと漬かって約6ヶ月を過ごしたのである。
 しかし、反日気分が濃厚といわれた韓国民衆の間で不愉快な思いをしたことは一度もなかった。事務所では学識経験者或いは新知識の有識者で教える立場であったので,それ相応の敬意を払われたのは当然としても、街の一般の人々からは老若男女を問わず温かく接してもらえたように思う。
 毎夕食の後、ホテルのみやげ物店(都心のホテルでは気取ってスーベニア・ショップというべきかもしれない)に立ち寄って、ろくに買い物もしないのに、油を売って時を過ごすのを常とした。そこの女主人も若い女店員(若い娘さんをアガシと言う)も取り止めもない日本人中年男性との会話を嫌な顔もせず、むしろ楽しんでくれたのを懐かしく思い出す。
 9月下旬の一時帰国の際には金正日ではないが、松茸一籠を土産に持たせてくれたし、11月下旬に最終的に引き上げる時には自家製のご自慢のキムチをどっさり持たせて呉れた。欧米人や東南アジアの人々或いは中国人と接する場合にはない遠い親戚と言った感じの親しさは一体何処からくるのだろうか?
 プロジェクトが「コンテナターミナルの最適立地調査」であるから、立地の現地踏査が必要だろうと言うことで、韓国人スタッフ数人と釜山、洛東江、馬山、光陽湾、順天、木浦、郡山、仁川などを見て回り、あちこちの韓式旅館や一杯飲み屋を利用したが、違和感は全くなかった。
 ところが休日に見て回った名所旧跡には殆ど例外なく、「この宮殿は壬申の倭乱(豊臣秀吉の朝鮮征伐のこと)で焼き討ちに会い、その後苦心して再建された」とか、「日帝36年の植民地時代に破壊された恨み」とか言う解説が至る所に掲示されている。それは歴史の話しであり、日帝36年にも、ましてや豊臣秀吉の朝鮮侵略には私個人として何の責任もないと思うが、こうも至る所で書かれると良い気持ちはしないし、居心地は極めて悪い気分になる。
 民衆レベルで身近で親しい感じとの落差が大きすぎるように思える。ある韓国人が「韓国人は昼は反日、夜は親日だよ。夜になるとカラオケで日本の歌を大声で歌うしね。」と言ってくれたが、建前としては反日だが、本音は親日と言うその落差を何とか埋める方法はないのだろうか?

<隣に日本が存在したことの不幸>
 「最適立地調査」プロジェクトのプロジェクト・マネジャーの金さんは韓国政府建設部の高級技官であったが、退官後大手建設会社に天下って、サウジアラビアでの請け負い工事の現法責任者として赴任した経験もあるエリートである。
 ある週末、金さんが我々日本人スタッフを自宅に招待してくれた。南山北麓の昔は日本人高級官吏の官舎だったという広壮な邸宅の応接間の書棚には洋書を含めてぎっしり本が詰まっていた。勿論韓国語の本も多いが、それを上回る日本の書籍が収納されているのには驚いた。最近発行された白書類(経済白書や建設白書、運輸白書などソウル中心部日本大使館の隣の書店には日本の政府刊行物が山積みされていて、何時もベストセラーだと言う)は然もありなんと思ったが、例えばかなり古い装丁の「都市化の進展に伴う利根川水系の流量の変化」と言うような専門書が並べられているのには意外でもあったし、感心もした。
 その本のタイトルを小声で読みながら訝しげな顔をしている私に対して、金さんは「ソウルの都市化は何年か遅れて東京の都市化の後を追っていますから、この種の書籍を読むと漢江の流量の変化を予測するのに大変役立つのですよ。」と説明してくれた。
 「壬申の倭乱」とか「日帝36年の恨み」と言い募られると、韓国の不幸は将に古来から日本という好戦的な国が隣に存在したことの不幸を一身の背負っているように思えてくる。
 しかし、そう言う側面ばかりだったのだろうかとも思える。韓国に出稼ぎに行く前にインドネシアのジャカルタに2年半ばかり駐在したが、その時現地の新聞でアリ・ムルトポと言う情報大臣がマニラでの国際会議で「日帝36年の恨み」言い募る韓国代表に対して「たった36年位の植民地支配のことをガタガタ言うのは如何なものか。わが国などはオランダから300年もの植民地支配を受けた。それよりも日本という先進大国が隣に存在することの有り難さを知るべきである。もしシンガポールの辺りに日本のような国が存在していたら、わが国はもっと発展していたであろう。」と、たしなめたと言う記事を読んだことがある。

<安重根義士記念館> 
 反日宣伝の極めつけは市民が憩う南山公園に鎮座まします安重根義士記念館であろう。安重根はご既承の通り初代朝鮮統監伊藤博文をハルピン駅頭で暗殺した民族の英雄である。確かに植民地支配の頭目を身を挺して暗殺したのは民族主義者にとっては溜飲を下げる快挙であり、フロックコートに身をつつんだ勇姿の銅像と共に義士記念館で崇め奉るのは理解できないではない。
 しかし、その伊藤博文は朝鮮統監の職にありながら、強固な日韓併合反対派であったことは意外にも日韓両国の何れでも余り知られてはいないようである。「露清両国の侵略に備えるために防衛権と外交権の接収は止むを得ないにしても、異民族を直接統治するなど、その労は余り大きく、功は少ない。」と終始反対の姿勢を崩さなかったと言う。明治の元勲で明治政府の中で少なからぬ発言権を持っていた伊藤博文が暗殺された後、反対派はその勢力を失い、わが国は急速に日韓完全併合へと傾斜して行ったのである。
 歴史に「もしも(If)」は禁物だし、無意味でもあるが、「もしも伊藤博文暗殺なかりせば」日韓併合と言う愚挙を避けることが出来、建前にしろ「日帝36年の恨み」などと、ことあるごとに非難されることもなかったであろう。
 「安重根は全く余計なことをしてくれたものだ」は私のゼミの指導教授であられた猪木正道先生がふと漏らされた言葉であるが、韓国民族の誇りのためにはともかくも、日韓関係百年の大計のためには大きなマイナスの効果をもたらしたと言えよう。

<韓帝2600年の恨み>
 韓国・朝鮮とは一衣帯水の隣国だから長い歴史の中ではいろいろな事件に見まわれた。勿論、日本が朝鮮半島を侵略した回数のほうが圧倒的に多いように思えるが、しかし鎌倉時代の蒙古来襲のように、朝鮮半島が蒙古来襲の前進基地になったのみならず、多数の朝鮮人兵員が押し寄せ対馬、九州の沿岸で殺戮を働いたのも歴史的事実である。
 もっと遡れば退職した会社の先輩が指摘していたように「大和朝廷は朝鮮族の植民国家として成立した。日本人の太宗は朝鮮族の末裔」なのかも知れない。
 「コンテナターミナルの最適立地調査」の現地踏査旅行の際にも至るところで目にした「日帝36年の恨み」のスローガンにやや食傷して、同行した海運港湾庁の若手エリート官僚に「あちこちに日帝36年の恨みと書いてあるが、日本の朝廷の習俗を見ていると、あれはどう見ても、朝鮮から渡ってきたとしか思えない。そうすると日本人は韓帝2600年もその支配に苦しんできたことになるが、この恨みはどうしてくれる.」と絡んでみた。その時のエリート官僚の虚をつかれたような、それでいて若干嬉しそうな表情を忘れることが出来ない。
 歴史の評価は所謂進歩的左翼文化人の言うほど単純に善玉悪玉や加害者と被害者が区別されるものでもない。歴史の真に客観的な評価は100年位経たないと定まらないとも言う。日韓両国民が「韓帝2600年の恨み」と「日帝36年の恨み」を笑って共有しつつ、共にEUのような西太平洋共同体(ある種の国家連合)の形成に向けて、手を取り合えるの何時の日なのであろうか?
 その意味で日本に来たこともない、日本語も出来ないという新しい世代(1963年生まれ)の金完變(キム・ワンソプ)氏が、日本の植民地支配を顧みて、その功罪を客観的に明かにしようとして書いた「親日派の弁明」と言う書物は韓国内の新しい動きとして注目に値する。
 民法でも相続放棄や限定相続と言うシステムで親のマイナス遺産の相続を回避できることが保証されている。政治家を含む日韓の指導者達はいたずらに過去に拘るのではなく、未来をこそ真っ直ぐに見据えて、共通の未来を切り拓くべきではないか。

                             


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April 01, 2005

はじめまして

プロフィールにも書いたように、最新の流行や技術の真っ先に飛びつくほうではないが、半歩遅れてついて行くのを信条にしている。

インターネット・メールが普及する以前の1992年ごろ、ワープロパソコン通信時代のNiftyserveに加入したのもその信条のしからしめたものであろう。

ところがNIFTY社はその歴史ある旧式のワープロパソコン通信のサービスを昨日3月31日をもって廃止してしまった。その結果、長年慣れ親しんだ古女房同然のメール・ソフトNifty Managerともお別れである。

メール友には昨夜「さようなら!Niftyserve」とのメッセージを送った。

想い出は美しいが、そこに止まっていては進歩がない。この記念すべき日に長年お世話になったNIFTYのHP上にBlogを開設して、思い出を踏み越えて断固前進することにした。

先輩諸兄姉にはよろしくご指導を賜りたい。

それでは何れまた。

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