August 18, 2019

エドワード・ルトワック「日本4.0―国家戦略の新しいリアル」読後感

 戦後日本を守って来たのは「同盟による抑止」。しかしこれが通用しない相手、むき出しの脅威である北朝鮮の出現によって、どうやってこの国を守れば良いのか? その答えが「日本4.0}であると言う。

<日本人は戦略的変身の天才? 見事な江戸幕府システム>>
 「日本4.0」とは何か? 日本人は「日本人は戦略下手だ」とのコンプレックスにとりつかれているが、日本人は戦略下手どころか、極めて高度な戦略文化を持っていると言う。日本人は常に一つの完全な戦略システムを造り上げてきており、しかも、そのシステムが危機に直面するたびに、新たに包括的なシステムに更新してきた。
 先ず「日本1.0」では徳川家康という最高レベルの戦略家が江戸幕府と言う完全なシステムを構築した。このシステムの凄いところは内戦をほぼ完ぺきに封じ込めたことである。それまで群雄割拠した戦国大名を温存したまま、彼らを完璧にコントロールするシステムを造り上げた(もし大名たちを全て潰そうとしたら内乱が何時までも続いたであろう)。親藩、譜代、外様を見事に配置したのに始まり、街道・関所の整備と管理、参勤交代などの包括的システムである。これが「江戸システム=日本1.0」である。

<「明治システム」への変身も世界に例がない>
 それに続く「明治システム」=「日本2.0」では黒船=西洋近代と言う強大な勢力の挑戦を受け、日本人は江戸システムを捨て、全く新しいシステムを選択した。西洋の挑戦を受けたのは日本だけではない。しかし非ヨーロッパの国で、包括的な近代化を達成したのは日本だけだった。日本の近代化は、政治制度、経済、軍事、教育、服装、髪型まで、社会全体に及んだ。中でも武士が自分の特権を否定する近代的な軍隊への転換を主導したことは画期的だった。

<日本3.0=戦後システム=経済立国は大成功>
 そして、1945年日本はまた新しいシステムを発明した。この「戦後システム」の特徴は、弱点を全て強みに変えた点にある。アメリカは日本に帝国陸海軍の再建を禁じた。これは近代国家としての存在を危うくするものだったが、日本政府は「これからは軍にカネをかけるのではなく、経済にカネを回そう」と経済を軸とする国づくりに転進した。日本人は貧困の川を渡り、世界第二の経済大国を造り上げた。
 ここで重要なのは日本が潔く敗北を認めたことだった。敗北を認められない国は少なくない。パレスチナやアラブ諸国は1967年の第3次中東戦争で失ったヨルダン川西岸を返してくれ要求していて、和平交渉が行き詰まっている。明治時代に日本に植民地化された韓国は帝国主義時代の厳しい国際環境での行動に問題があったことを潔く認められず、被害者意識に凝り固まって、日本を非難して、うっぷんを晴らしているところに、日韓関係が新たな未来へと踏み出せない原因となっているのではないか?
 1945年の日本は敗戦の直後から次のシステム作りに動き始めた。台湾や朝鮮半島の喪失を叫び続けていない。それによって、日本は国を救い、国民を救い、結果的にその伝統を守ることが出来た。
 「戦後システム=日本3.0」は軍事的敗北を経済的勝利に帰ることが出来たシステムである。このシステムで最も重要な省庁は「通産省」だった。日本経済・産業の立て直しが最も重要な課題だった。
 軍事的に大きな制約を受けた戦後日本は、安全保障の軸を日米同盟に求めた。日米同盟こそが「戦後システム」の前提条件だった。そこで日本は「同盟メンテナンス」を忠実に実践してきた。
 これは冷戦時代にはソ連を抑止し、今も日本にとって有効に機能している。近年の中国の台頭に対しても、アメリカの核兵器は中国への抑止力になっているし、自発的に始まった「反中同盟」は日本、インド、ベトナム、インドネシアと言った国々と関係を強化している。

<抑止のルールが効かない北朝鮮危機は先制攻撃も必要に>
 しかし日本は今また新しいシステムを作る必要に迫られている。それは「同盟」を有効に使いつつ、目の前の危機に素早く、実践的に対応しうる自前のシステムである。それは江戸、明治、戦後に続く「日本4.0」だ。そのフィールドは北朝鮮の脅威、米中対立を軸とした「地経学」的紛争、そして少子化社会である。
 北朝鮮による核の威嚇には抑止の論理が効かない。それは予測不可能な武力である。
それはもっとも重要な貿易相手国であったマレーシアで腹違いの兄を殺して、この大切な関係をぶち壊してしまった。
 米朝の非核化交渉は成功するという確証は何処にもない。北朝鮮のように「抑止のルール」の外側に出ようとする国家に対して必要なのは「抑止」ではなく防衛としての「先制攻撃」である。先制攻撃を具体的に言えば、北朝鮮の全ての核施設と全てのミサイルを排除すること、即ち軍事的非核化である。その為には今まで「同盟メンテナンス」のツールだった自衛隊を進化させ、「作戦実行」のメンタリティーに移行することだ。そのために今から爆撃機を導入したり、ミサイル開発と言った時間がかかり過ぎる無責任な政策を選択すべきではない。空自が多数保有しているF-15戦闘機を改装してミサイルを搭載出来るようにすればよい。イージス・アショアの導入は時間がかかり過ぎる。設置される6年後には時代遅れになりかねない。
 更に差し迫っているのは「少子化問題」である。人口減少は国家にとって真の危機である。そもそも将来の納税者が減少すれば近代国家は衰退するしかない。子供がいなくなれば安全保障の論議など何の意味もない。国家の未来も子供の中にしかない。どんな高度な防衛システムを完成させても子供が減り続けている国が戦争に勝てるだろうか? 日本が最も優先すべき戦略的な施策は「無償のチャイルド・ケア」である。

<自衛隊進化論>
 自衛隊は「戦後システム=日本3.0」の中で、その主要任務を担ってきた。それは「同盟メンテナンス」を忠実に実践することである。アメリカに対して「安全保障のFree Rider」ではないという姿勢を保ってきた。しかし、そこに北朝鮮のような「抑止のルール」が効かない脅威が出現した。北朝鮮から攻撃される危機に直面した場合には、国連軍の出動を要請することなど全く無駄である、安保理によるセレモニーで時間を空費するだけである。差し迫った危機の場合「国際社会の世論」など全く役に立たない。1992年サラエボがセルビヤ人勢力に包囲され、1万人の死者を出したが、何処も介入しなかった。北朝鮮のようなむき出しの脅威に対しては、日本は自力で、自らの責任で、自国の安全保障を最優先させなければならない。そこで必要とされるのは「作戦実行のメンタリティー」である。北朝鮮にはまともな防空システムを持っていないので、空からの攻撃になす術がない。F-15戦闘機の改装など、日本は防御のための先制攻撃能力の獲得が喫緊の課題なのである。
 また自衛隊には先制攻撃に失敗しない為には現地情報をとって来る機関としての特殊部隊が必要だ。特殊部隊とは小規模で、目立たず、効果的な組織でなければならない。そこで求められるのは、支援のない状態で自律的に行動できる能力、リスクを恐れない精神である。モデルとすべきはイスラエルの特殊部隊であり、只管にリスクを回避し、犠牲を出さないことをモットーに肥大化した米軍の特殊部隊ではない。冷戦後、ナポレオン以降、両世界大戦までの国民を動員して「偉大な国家目的のために戦われる」総力戦としての戦争は姿を消し、冷戦時代を経て戦争の文化が変わってしまったようだ。言わばPost Heroic War、即ちリスクとその責任を回避する戦争のあり方が、現在では行き過ぎてしまい、却ってコストと被害を増大させるというパラドックスに陥ている。勝利と言う目的は得たいのに、リスクと言う代償は払いたくない。しかしそれは実際には莫大なコストがかかり、犠牲が増える可能性すらある。軽減されているのは指導者の責任だけだ。自衛隊を進化させるにあたってはこのパラドックに陥ってはならない。
 また冷戦後の世界は、軍事を中心とした地政学の世界から、経済をフィールドとする地経学の世界に軸を移しつつある。それは「貿易の文法」で展開される「紛争の論理」であるという見方も示唆的である。 
 

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Clinton「大統領失踪」読後感

第42代大統領Bill Clintonと売れっ子作家James Pattersonとの共著"The President is Missing"を上下2巻を1週間で読み終えた。帯の宣伝に「元大大統領の実が知りうる知識と世界的ベストセラー作家の技量が合わさって生まれた唯一無二のエンターテインメントと言う触れ込みだけに、興味は尽きず、面白く、息をつかせなかった。2018年6月に原書が米国で発刊されると同時にベストセラー第一に躍り出て、その後数週間1位の座を守り続けたという。それが昨年2018年末の12月15日には日本語の翻訳初版が早川書房から発行されると早業にも驚いた。

<大統領突如失踪>
 物語は主人公ダンカン大統領が国際的なサイバーテロ組織<ジハードの息子たち>の指導者スリマン・ジンドルクと内通した嫌疑で弾劾裁判にかけられそうになると言う窮地の中で、アメリカ全土を機能不全に陥れるサイバーテロから祖国を守るために、ある協力者に姿を隠して命を狙うテロリストの餌食になりかねない危険をも顧みず、1人で会いに行くという挙に出る。

<サイバーテロとは何か?>
 このサイバーテロ攻撃が完全に成功するとどうなるのか、本書を読む前はイメージが湧かなったが、サイバーテロが米国のサイバーネットに送り込んだウィルスはワイパー型と呼ばれるもので、IT機器に入っている全てのソフトウェアを一掃する(Windows10やMacOSなどのOrerating Softが動かなるとPCは全く機能しなくなる)。PCもルーターも機能しない「でくの坊」のただの箱になってしまう。それはDark Age暗黒時代だ。このウィルスが動き出せば「米軍は戦力を失い、金融機関の全ての情報とバックアップデータは消え、配電網と伝送ネットワークは破壊され、給水や浄水の設備は壊滅し、携帯電話は使用不能に陥り、空港管制や鉄道運行システムや病院の機能も麻痺する。他にも様々な惨禍が起こる。その結果、多くの人命が失われ、あらゆる世代の健康が害され、世界大恐慌以上の経済混乱がもたらされ、全国大小の地域で暴力と無秩序がはびこる。その影響は全世界にひろがり、瓦礫の山を元に戻すのに数年を、経済と政治と軍隊が立ち直るのに10年、20年を要することになる。
 最近全ての機器がインターネットで繋がるIOT(Internet of Things)の便利さが喧伝され、TV、エアコン、風呂、など全ての家電機器がスマホやスマート・スピーカーで操作できるというが、その便利さ(それ自体一つ一つは大した便利さではないと思われるが)に幻惑されて、全てをネットに依存してしまう危険はないのだろうか? かつてはデータをPCやネットに保存しても、台帳や紙の上のカルテなどが最終的な保存媒体とされていた思うが、今は如何なっているのだろうか? 便利さが即ち脆弱さと隣り合わせの危険な領域に踏み込んで終おうとしているのではないかかと危惧される。
 ダンカン大統領はそのサイバー空間の広がりと脆弱さを完全に理解していたが故に、果敢にも自らに迫る危機を顧みず、果敢にもこのテロ攻撃に立ち向かい、側近の協力を得て、タイマーが仕掛けられたワイパー型ウィルスの起動を10秒前に抑え込み、無力化に成功する息詰まるようなストーリーだ。

<陰謀渦巻くホワイハウスの内幕>
 しかも途中で国家安全保障を担当する少数の閣僚や側近しか知らないサイバーテロの暗号名"Dark Age"が外部に漏れていたことが発覚する。裏切り者を身近にかかえての作業は困難を極める。ホワイトハウスの内部に大統領を陥れ、解任に追い込もうという動きや副大統領に疑いの目向けさせ、自らがそのポストを狙おうとする陰謀など渦巻いている。現実のホワイトハウス内部もそのような権力欲の渦巻く世界なのだろうか?

<米国の真の友人は?>
 ダンカン大統領は秘密の作戦指令室に移って、ウィルス無力化作戦に取り掛かる。そこに大統領の要請に応じて、駆け付けたのはドイツとイスラエルの首相、ロシアからは大統領の代わりに首相が来た。専門技術者集団を引き連れてやってきたイスラエルとドイツはこの作戦に貢献したが、ロシアは邪魔こそしなかったが、大した貢献はしなかった。
 サイバーテロ組織<ジハードの息子たち>は密かにウィルスを米国のネット網に仕掛けると同時に、そのウィルス起動に邪魔が入らないように、大統領の秘密の指令作戦基地に暗殺団を差し向ける。腕利きの暗殺用兵たちを動員するには莫大な資金がいる。何とその黒幕はロシアとサウジアラビアの反国王派の王族だったということが後日判明する。
 両者は米国を核兵器でとどめを刺すことまでは望まず、アメリカの弱点を突いて深刻な痛手を与えたかった。そうすることによって近隣諸国を好き勝手に締め付け、他の地域を威嚇して影響力を及ぼす自由を得たかったのだ。
 それにしてもこの小説には日本も中国も全く登場しないのは面白い。アメリカの真の友人はドイツとイスラエルということなのだろうか?

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April 15, 2019

服部龍二「高坂正尭―戦後日本と現実主義」読後感

 昨年10月末に発刊された「高坂正尭教授」の評伝を同じ猪木教授門下の末端に連なるものとして、共感と感銘をもって読了した。

<28歳で論壇デビュー>
 高坂教授は昭和32年3月に法学部を卒業して、直ちに学卒助手(学部卒業後大学院を経ずに直ちに優秀な人材を後継者として任用する帝国大学系に見られた制度。それを学卒助手と呼ばれるのは本書で初めて知った)として、任用された。その意味でまさに我々昭和32年入学の京大法学部学生とは入れ違いの新進気鋭の学者の卵だった。2年半後の昭和34年9月には早々と助教授に昇進されている。2年間のハーバード大学留学を経て、帰国後の38年、「中央公論」に「現実主義者の平和論」、休む暇もなく「宰相吉田茂論」(39年)「海洋国家日本の構想」を発表。28歳の若さで論壇に華々しくデビューされた。 昭和46年には37歳で教授に昇任。その間、吉田茂のノーベル平和賞受賞工作として、エンサイクロ・ブリタニカに吉田のゴーストライターとして論文を代作したり、佐藤首相のブレインとして、基地問題、沖縄返還工作、安全保障政策などに知恵を貸すなどなどで活躍し、三木、大平、中曽根、などの歴代内閣でもコミットの程度・質はそれぞれだが、大きな役割を果たされたようだ。
 28歳の若さでの論壇デビューは衝撃的であり、社会人となって数年しか経ってない小生も感嘆を覚えるとともに、「宰相吉田茂論」を読み、続いて「海洋国家日本の構想」を読んだ。しかしデビュー処女作の「現実主義者の平和論」は読みそこなったようだ。

<「吉田茂論」と「海洋国家日本の構想」>
 「吉田茂論」による「商人国家観」に基づく「経済立国の思想」を日本の戦後復権の戦略として採用したのは極めて懸命な選択であったと言う議論には納得したし、吉田の権威主義的な政治スタイル(ワンマン政治)に批判的だった新聞の論調に流されて、無批判に反吉田ムードを受け入れていた不明を恥じた。
 しかし第3作として発表された「海洋国家日本の構想」には、海運人として社会生活を踏み出して間もない小生には大いに感銘と多大の示唆を受け、勇気づけられたことを鮮明に覚えている。「通商国民のフロンティアは広大な海にある」という託宣には新米海運人として大いに勇気づけられた。それと共に「日本は同じ政治体制の西洋と海に隔てられる『飛び離れた西』であり、近代化を始める前から、日本は中国とは異なっていた」、言わば「東洋の離れ座敷」であり、「中国が核開発に成功したからと言って、中国に追従的な中立主義をとるべきではない」と言う地政学的な含意にも啓発された。

<文明論史家の一面も>
 その後、総合雑誌などに掲載される高坂教授の「論文」や「時事評論」を読んだ記憶はそれほどないが、小生の書棚には「世界地図の中で考える」「文明が衰亡するとき」「世界史の中から考える」などの文明論的著作が今も見いだせる。それらを感動を覚えつつ読んだ記憶がよみがえる。特に「文明が衰亡するとき」は何度も読み返した形跡がある。巨大なローマ帝国が自らの重みに圧せられて、潰えていく過程。通商国家ヴェネチアが幸運と優れた外交・通商感覚に支えられて繁栄し、やがて衰亡していく運命には「商人国家」的路線を戦後再生の道と定めた我が国の運命を予告しているように思われ、身につまされる思いがした。後にその章の下敷きとなった塩野七生の「海の都の物語―ヴェネチア共和国一千年の歴史」を読み、2度もヴェネチアを訪れ、その舞台となった人工島を徘徊した時の感激は今なお忘れられない。

<「国際政治」における「価値の体系」>
 高坂教授の最も体系的な国際政治論は昭和41年に中公新書から刊行された「国際政治―恐怖と希望」で、初版二万部、その後毎年のように増版を重ね、第50版で15万4000部に及ぶロングセラーとなっていると言う。この著作は読んだような記憶があるが、書棚には見当たらない。この本で高坂教授は善玉・悪玉説や国連による平和のように、問題を単純化する見方に警鐘を鳴らし、その上で「常識の数だけ正義はある」「国家は力の体系であり、利益の体系であり、そして価値の体系である。その一つのレベルのみに目を注ぐのは間違いであると説く。軍事力の増強に血道をあげる者に対しては、経済や世論が国際政治では無視できないことを諭し、経済や理想だけを語るものには「国際政治の究極的な手段は、あくまでも軍事力である」ことを知らしめようとした。この三レベル論のヒントを得たのは英国の政治学者E.H.カーの古典「危機の二十年」の中での、国際政治の政治的権力を(A)軍事的力、(B)経済的力、(C)世論を支配する力の三つの範疇に分けたところから発想を得たようだ。「価値の体系」と「世論を支配する力」は全く同じ概念とは言えないが、要するに所謂ソフト・パワーのことで、「台湾との平和統一は中国自身に魅力がなければ実現できない。今の中国は、国内に住んでいる民衆も魅力を感じるところが少ない。多くの人が海外に移住したがっている状況で、台湾の人が中国と一緒になりたいはずがない」と言われており、中国は軍事力、経済力で優っていても、ソフト・パワーで負けていると言うことになる。中国国内では「北京愛国、上海出国、広州売国」とも囁かれているとか。その劣等感の故に、逆に中国は「台湾統一は中国の核心的利益であり、武力での解放も辞さない」と呼号するのだろうか? 高坂教授の「国家の三つのレベルの体系論」は現今の東アジア情勢を見通す上でも、有益な視点を提供しているように思える。 国家がよって立つ「価値の体系」とは何か?「国家が追及すべき価値の問題を考慮しないならば、現実主義者は現実追従主義に陥るか、もしくはシニシズムに堕する危険がある。また価値の問題を考慮に入れることによってはじめて、長い目で見た場合に最も現実的で国家の利益に合致した政策を追求することが可能となる」とした上で、論壇デビュー作の「現実主義者の平和論では「日本が追及すべき価値が憲法第九条に規定された絶対平和主義のそれであることは疑いない。私は、憲法第九条の非武装条項を、このような価値の次元で受け止める」と論じた。

<冷戦後、湾岸危機に直面して改憲論者に>
 しかし、冷戦終結後には改憲を主張するようになった。それは冷戦体制=二極体制の崩壊と、それ以上に湾岸戦争の衝撃によるものだったようだ。イラクのサダム・フセインのクウェートへの武力侵略は明白な国連憲章違反であり、許されるべきことではなかった。これに対し高坂教授は「危機に対して拠出金を提供することは無意味ではないが、経済以外の手段で貢献しないようであれば「日本は世界秩序の作成・維持に参加することが出来ず、それ故、弱い立場に立たされる。結局のところ、奇妙な一時の繁栄で終わった国と言うことになるだろう」と危惧した。それは憲法九条が日本国民を思考停止状態においているからで、「憲法九条を守れば、或いは自衛隊を強化したり、海外に派遣したりしなければ、平和が保たれるかのように考える。国内で憲法問題はタブーであり、常に外交、安全保障問題をサボタージュするための逃げ口上として使われてきた。このまま放っておくと、日本が世界の中で『名誉ある地位』を占めることはあり得ない」と論じた。「責任ある決断をし、行動をするということをやらなかったら、道徳的な構造、Moral Fiberが朽ち果てる」「道徳的な力が大事なんで、それがなければ国は朽ち果てる」と危機感を募らせる。「国は戦争に敗れても滅びはしないが、内面的な腐敗によって滅びる」とボルテージを上げている。何よりも高坂教授の我慢がならなかったのは、核の廃絶とか、全面軍縮とか、世界的な通貨制度の確立など、すべてできもしないことで、それを根拠にできることを批判する風潮が強まり、結局何もしないことになっていること。「日本では理想家風の偽善者が力を持ち過ぎていて、その結果少しでも責任ある行動しようとする人を苦しめている」ことだったようだ。
 吉田茂首相の「商人国家論」に基づく「経済立国主義」が教条化され、「吉田体制」にまで高められてしまい、「安全保障感覚」が欠如してしまった政治家の劣化を危惧している。晩年の高坂教授は「憲法九条を改正し、PKOにもさらにはPKFのも参加しなければ、日本は新しい国際秩序つくりに参加できなくなってしまう」と主張するようになった。
 高坂教授の生涯は4年遅れの後輩である我々と同じ時代の空気を呼吸し、冷戦、そしてその崩壊、新たな国際秩序が定まらない状況の苦悩と問題意識を共有している。 
 そして、62歳とと言う若さで肝臓癌に命を奪われた。日本の運命を憂慮し、まだやり残したことがあると無念の思いを懐きながら、最後まで約束した講演をこなし、博士論文の審査をし、原稿を書かれたと言う神々しいまでの壮烈な最後には深い感銘を受けた。
 余談にはなるが、高坂教授には2度ばかり、お会いして懇談したことがある。一度目は猪木ゼミ2年先輩の木村汎(後の北大スラブ研教授)さんが、アメリカ留学中の猪木先生のお宅の留守番役をしておられたとき、訪問して歓談しているところに、高坂助教授がひょっこりと尋ねてこられた。もう一度は平成時代が始まったばかりのとき、会社で高坂教授に講演をお願いした。その際会長、社長との会食をセットし、同席したことがある。それらの出会いも、今となっては懐かしく、良き思い出である。
 

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エドワード・ルトワック「日本4.0―国家戦略の新しいリアル」読後感

 戦後日本を守って来たのは「同盟による抑止」。しかしこれが通用しない相手、むき出しの脅威である北朝鮮の出現によって、どうやってこの国を守れば良いのか? その答えが「日本4.0}であると言う。

<日本人は戦略的変身の天才? 見事な江戸幕府システム>>
 「日本4.0」とは何か? 日本人は「日本人は戦略下手だ」とのコンプレックスにとりつかれているが、日本人は戦略下手どころか、極めて高度な戦略文化を持っていると言う。日本人は常に一つの完全な戦略システムを造り上げてきており、しかも、そのシステムが危機に直面するたびに、新たに包括的なシステムに更新してきた。
 先ず「日本1.0」では徳川家康という最高レベルの戦略家が江戸幕府と言う完全なシステムを構築した。このシステムの凄いところは内戦をほぼ完ぺきに封じ込めたことである。それまで群雄割拠した戦国大名を温存したまま、彼らを完璧にコントロールするシステムを造り上げた(もし大名たちを全て潰そうとしたら内乱が何時までも続いたであろう)。親藩、譜代、外様を見事に配置したのに始まり、街道・関所の整備と管理、参勤交代などの包括的システムである。これが「江戸システム=日本1.0」である。

<「明治システム」への変身も世界に例がない>
 それに続く「明治システム」=「日本2.0」では黒船=西洋近代と言う強大な勢力の挑戦を受け、日本人は江戸システムを捨て、全く新しいシステムを選択した。西洋の挑戦を受けたのは日本だけではない。しかし非ヨーロッパの国で、包括的な近代化を達成したのは日本だけだった。日本の近代化は、政治制度、経済、軍事、教育、服装、髪型まで、社会全体に及んだ。中でも武士が自分の特権を否定する近代的な軍隊への転換を主導したことは画期的だった。

<日本3.0=戦後システム=経済立国は大成功>
 そして、1945年日本はまた新しいシステムを発明した。この「戦後システム」の特徴は、弱点を全て強みに変えた点にある。アメリカは日本に帝国陸海軍の再建を禁じた。これは近代国家としての存在を危うくするものだったが、日本政府は「これからは軍にカネをかけるのではなく、経済にカネを回そう」と経済を軸とする国づくりに転進した。日本人は貧困の川を渡り、世界第二の経済大国を造り上げた。
 ここで重要なのは日本が潔く敗北を認めたことだった。敗北を認められない国は少なくない。パレスチナやアラブ諸国は1967年の第3次中東戦争で失ったヨルダン川西岸を返してくれ要求していて、和平交渉が行き詰まっている。明治時代に日本に植民地化された韓国は帝国主義時代の厳しい国際環境での行動に問題があったことを潔く認められず、被害者意識に凝り固まって、日本を非難して、うっぷんを晴らしているところに、日韓関係が新たな未来へと踏み出せない原因となっているのではないか?
 1945年の日本は敗戦の直後から次のシステム作りに動き始めた。台湾や朝鮮半島の喪失を叫び続けていない。それによって、日本は国を救い、国民を救い、結果的にその伝統を守ることが出来た。
 「戦後システム=日本3.0」は軍事的敗北を経済的勝利に帰ることが出来たシステムである。このシステムで最も重要な省庁は「通産省」だった。日本経済・産業の立て直しが最も重要な課題だった。
 軍事的に大きな制約を受けた戦後日本は、安全保障の軸を日米同盟に求めた。日米同盟こそが「戦後システム」の前提条件だった。そこで日本は「同盟メンテナンス」を忠実に実践してきた。
 これは冷戦時代にはソ連を抑止し、今も日本にとって有効に機能している。近年の中国の台頭に対しても、アメリカの核兵器は中国への抑止力になっているし、自発的に始まった「反中同盟」は日本、インド、ベトナム、インドネシアと言った国々と関係を強化している。

<抑止のルールが効かない北朝鮮危機は先制攻撃も必要に>
 しかし日本は今また新しいシステムを作る必要に迫られている。それは「同盟」を有効に使いつつ、目の前の危機に素早く、実践的に対応しうる自前のシステムである。それは江戸、明治、戦後に続く「日本4.0」だ。そのフィールドは北朝鮮の脅威、米中対立を軸とした「地経学」的紛争、そして少子化社会である。
 北朝鮮による核の威嚇には抑止の論理が効かない。それは予測不可能な武力である。
それはもっとも重要な貿易相手国であったマレーシアで腹違いの兄を殺して、この大切な関係をぶち壊してしまった。
 米朝の非核化交渉は成功するという確証は何処にもない。北朝鮮のように「抑止のルール」の外側に出ようとする国家に対して必要なのは「抑止」ではなく防衛としての「先制攻撃」である。先制攻撃を具体的に言えば、北朝鮮の全ての核施設と全てのミサイルを排除すること、即ち軍事的非核化である。その為には今まで「同盟メンテナンス」のツールだった自衛隊を進化させ、「作戦実行」のメンタリティーに移行することだ。そのために今から爆撃機を導入したり、ミサイル開発と言った時間がかかり過ぎる無責任な政策を選択すべきではない。空自が多数保有しているF-15戦闘機を改装してミサイルを搭載出来るようにすればよい。イージス・アショアの導入は時間がかかり過ぎる。設置される6年後には時代遅れになりかねない。
 更に差し迫っているのは「少子化問題」である。人口減少は国家にとって真の危機である。そもそも将来の納税者が減少すれば近代国家は衰退するしかない。子供がいなくなれば安全保障の論議など何の意味もない。国家の未来も子供の中にしかない。どんな高度な防衛システムを完成させても子供が減り続けている国が戦争に勝てるだろうか? 日本が最も優先すべき戦略的な施策は「無償のチャイルド・ケア」である。

<自衛隊進化論>
 自衛隊は「戦後システム=日本3.0」の中で、その主要任務を担ってきた。それは「同盟メンテナンス」を忠実に実践することである。アメリカに対して「安全保障のFree Rider」ではないという姿勢を保ってきた。しかし、そこに北朝鮮のような「抑止のルール」が効かない脅威が出現した。北朝鮮から攻撃される危機に直面した場合には、国連軍の出動を要請することなど全く無駄である、安保理によるセレモニーで時間を空費するだけである。差し迫った危機の場合「国際社会の世論」など全く役に立たない。1992年サラエボがセルビヤ人勢力に包囲され、1万人の死者を出したが、何処も介入しなかった。北朝鮮のようなむき出しの脅威に対しては、日本は自力で、自らの責任で、自国の安全保障を最優先させなければならない。そこで必要とされるのは「作戦実行のメンタリティー」である。北朝鮮にはまともな防空システムを持っていないので、空からの攻撃になす術がない。F-15戦闘機の改装など、日本は防御のための先制攻撃能力の獲得が喫緊の課題なのである。
 また自衛隊には先制攻撃に失敗しない為には現地情報をとって来る機関としての特殊部隊が必要だ。特殊部隊とは小規模で、目立たず、効果的な組織でなければならない。そこで求められるのは、支援のない状態で自律的に行動できる能力、リスクを恐れない精神である。モデルとすべきはイスラエルの特殊部隊であり、只管にリスクを回避し、犠牲を出さないことをモットーに肥大化した米軍の特殊部隊ではない。冷戦後、ナポレオン以降、両世界大戦までの国民を動員して「偉大な国家目的のために戦われる」総力戦としての戦争は姿を消し、冷戦時代を経て戦争の文化が変わってしまったようだ。言わばPost Heroic War、即ちリスクとその責任を回避する戦争のあり方が、現在では行き過ぎてしまい、却ってコストと被害を増大させるというパラドックスに陥ている。勝利と言う目的は得たいのに、リスクと言う代償は払いたくない。しかしそれは実際には莫大なコストがかかり、犠牲が増える可能性すらある。軽減されているのは指導者の責任だけだ。自衛隊を進化させるにあたってはこのパラドックに陥ってはならない。
 また冷戦後の世界は、軍事を中心とした地政学の世界から、経済をフィールドとする地経学の世界に軸を移しつつある。それは「貿易の文法」で展開される「紛争の論理」であるという見方も示唆的である。 
 

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October 08, 2018

日本人ノーベル賞受賞大量生産の秘密:日本語

またまた本庶佑京大特任教授がノーベル賞を受賞しました。まことにお目出度いことです。
 それにしても、毎年恒例のロンドン・タイムスの関係機関による世界大学ランキングによると、日本の大学はシンガポール大、北京大、香港大の遥か後塵を拝し、京大は東大にのはるか後方にあります。
 このノーベル賞受賞者ランキングと世界大学ランキングの格差は何処からくるのか?との疑問に付きまとわれます。また再びこの疑問に見舞われましたが、大分前に「日本語の科学が世界を変える」と言う書物を読んだのを思い出しました。その著者によると日本語で科学の思考を進めるところにノーベル賞大量生産の秘密のあるのだと指摘してます。
 また同じ日本語の優れている点を分析した書物に鈴木孝夫慶応大名誉教授「日本語教のすすめ」があります。この本を読んで考えたのは、日本語は知的エリートと一般民衆との格差・亀裂が生じにくい極めて民主的な言語特性を備えているため、日本ではトランプ現象(トランプを熱狂的に支持する高卒以下の白人大衆とトランプに拒絶反応を示す高学歴層の亀裂・対立)や欧米のようなPopulismの猖獗を辛うじて免れるのではないかとかすかな希望を見出しました。楽観的過ぎるでしょうか?

【松尾義之「日本語の科学が世界を変える」読後感】

著者は国立高→東京農工大工学部→日経サイエンス編集部→ネイチャー・ダイジェスト誌編集長を務めた科学ジャーナリスト。
なかなか面白い着眼の書物である。
21世紀に入ってから、日本はほぼ毎年1名の割合で、ノーベル賞受賞者を輩出しているのは何故かと問いかけ、「それは日本語で科学しているからではないか」との仮説を証明しようとしている。「日本語は非論理的」「日本語は科学に適していない」と言う妄説は米国に次ぐノーベル賞受賞者を量産しているという事実の前に説得力を失ってしまった。
むしろ江戸時代の蘭学から、西周など明治の先達が心血を削って、科学用語のみならず、法律用語など近代西欧の学術用語を日本語に置き換えるという大事業を成し遂げてくれたおかげで、母国語=日本語で科学ができる世界でもまれな国を作り上げることができた。漢字表記は英語の学術用語とは異なり、本質が直感的に理解できる。英語の準公用語化などはナンセンスだと喝破している。アイデンティティのないグローバル化など百害あって一利なしだと。それよりも国語教育、科学教育の充実のほうがはるかに先であると主張する。明治の先達の努力に感謝である。むしろ日本語を媒体とする日本人の思考方法、即ちヨーロッパの言語ののように善悪、正反、正邪を二律背反的に明確の区別する思考法とは違い、中間に真理があると言う中庸の感覚が湯川博士の中間子理論や木村資生博士の「分子進化の中立説」などは日本語の思考方法が生み出したのでないかと言う。
しかし、日本人は世界で一番多くの文字種を使っている。漢字、ひらがな、カタカナ、アルファベット、アラビア数字、時計数字など6種もの文字種を使いこなしている。そのため有識者の間でローマ字表記論者が沢山いた。しかしこの難点は東芝の森健一博士が1978年に「日本語ワードプロセッサー」を開発されたことにこの問題点は完全に解決された。これは日本の文字文化に革命を起こした。その結果異文化を取り入れる許容度が非常に大きいと言う日本民族の特徴が損なわれることなく、、世界で最も多種類の文字を日常的使える状態となっている。この日本語ワードプロセッサーに技術は、中国の漢字体系のみならず、アジアの国々の文字やコンピュータ処理に流用されているという。世界貢献であるという点でも日本語ワープロの世界に誇ってい良い大発明で、ノーベル平和賞が何故授与されないのか不思議だという。
韓国は全面的ハングル化を進めたため、元の漢字熟語の読みが同じ場合、同じ表記になってしまい、行き違いが生じ、ましてや微妙なニュアンスの伝達など望むべくもないという。彼らの誇る李朝朝鮮の歴史書や古文書を読める人が殆どいなくなってしまったと言う。それが発想力の枯渇を生み韓国からノーベル賞受賞者が出ないという理由だと言えば、牽強付会が過ぎるだろうか?
何れにしろ、「この国に生まれてきて良かった」と思えるような国にすることが、国家の目標だとすれば、あらゆる学問・教育が世界水準で受けられる日本に生まれてよかった樋のが正直な感想である。

【鈴木孝夫慶応大名誉教授「日本語教のすすめ」読後感】

 京大法の同級生:宮垣弘兄がFBに投稿した紹介記事に触発されて、この書物を手にした。宮垣兄はアイルランドを縦断徒歩旅行した行動派であるだけでなく、法学部出身者の関心が偏りがちな政治、経済など社会科学の分野に留まることなく、漢籍やシェークスピアなどにも造詣が深い一流の文化人である。

<日本語は大言語>
 鈴木教授の専攻は「言語社会学」。そのようなジャンルの学問があるのは不覚にもこれまで知らなかった。教授の説くところによると、世界67億を超える人類が約6000種もの言語を使って生活している。その6000種の言語の内1億を超える大言語は10前後しかない。人口が1億2700万人である日本はすべて日本語使用者であるから、日本語は世界6000種言語の中でも10番前後を占める大言語である。

<日本語に敬意を払わない日本人―日本語放棄論>
 しかし、日本人はこともあろうに「日本語は人間の言語としては出来の悪い欠陥言語であるから、これを捨ててもっと効率の良い西洋言語を国語として採用しなければ、世界の文明から取り残される」と言い続けてきた。古くは森有礼文相の「英語為邦語之論」があり、戦後は文豪志賀直哉が「国語をフランス語にせよ」と主張した。また尾崎咢堂と言う大政治家は日本語廃止運動を展開した。日本語廃止論まで行かなくても、「非能率な漢字廃止論」→「カナ文字論」→「ローマ字表記論」は多い。我々が就職したころの伊藤忠では社内文書がカナ文字タイプを使用してのカナ文字表記を実践していたように記憶している。
 ゼミの猪木正道教授も「ソ連のキリル文字も標準ローマ字表記に変更しようと思えば一夜にしてできる。ロシア語をローマ字表記にしなければ、ソ連の後進性は脱却できないし、真の近代化も難しい。日本語も同じだ」と漏らされた記憶がある。得てして外国語に堪能が学者・文化人は日本語への愛着がなかったようだ。

<日本語はテレビ型言語>
 日本語の特徴は音韻(音素)が少ないことである。英語、ドイツ語、フランス語、の音韻の総数がそれぞれ45、39、36もあるのに、日本語では23しかない。これが音声から見た日本語の最大の欠点である。音韻と音韻を組み合わせ方まで限られてしまう。日本語は基本的に母音のみか、母音+子音の組み合わせしかできない。したがって日本語には同音語がやたらに多い。工業、鉱業、興行、興業、功業、或いは紅葉、黄葉、広葉、硬葉など、音だけでは区別できない。
 しかし、日本人はある言葉を聞いたとき、無意識にその言葉がどのような文字で書かれているかを思い浮かべている。その意味で日本語は音声が全てのラジオ型言語でなく、音が等しい言葉がどのような文字で書かれているかを思い浮かべている。同音語の中から幾つかの漢字を思い出して、目下の話の内容に一番適合する漢字を正解として選んで、話を理解している。水星なのか、彗星なのか。日本語は複雑で、高級な仕組みを持ったテレビ型言語なのである。目と言う機関は耳よりも何百倍も優れた情報解読力を持っている。

<漢字訓読みと民主的言語としての日本語>
 外国人の本語を習う際、戸惑わせることの一つに漢字の音訓二重読みがある。「同じ文字に何故異なる読み方があるのか」と。それは日本が古代中国の数ある朝貢国の一つでありながら、地続きでない唯一の国であったため、長期の直接支配を免れたのみならず、短期の武力侵略すらも僅か二度の元寇だけで済んだ。長期に直接支配された場合、その国の運営は外来の支配者によって彼らの言語によって行われる。そのため被支配国の要人や指導者は支配者相手に支配者の言語を日々学び、実際に使う立場にたたされる。
 日本は直接支配下に入らなかったため、国内には中国人は殆どいなかった。そこには日本から隋唐に渡った少数の役人や学者、留学僧などが現地で中国語を苦労して学んで日本に帰って来て、彼らの持ち帰った中国語の文献や新知識を周りのの人に広めるには、漢字一つ一つを書いた上で、発音して見せ、その意味するところを日本語で説明しなければならなかった。例えば「水」と言う字を書いて、「スイ」と発音して見せ、これは日本語の「みず」のことだという具合だ。
 例えば、人類学に「猿人」と言う言葉がある。自動車のエンジンのことかと戸惑う使途がいるかもしれない。しかし大抵の場合は状況判断からTV言語機能を働かせて、それが「猿人」ではないかと想像を働かせる。「猿人」と言う字を見れば訓示読み的に猿と人が合体した「サルみたいな人」と中身が想像できてしまう。
 ところが英語だとそうはいかない。英語では猿人のことをpithecanthropeと言うが、米国のイェール大学の文科系の数十人の大学院生、教授を前にして黒板にこの単語を書いて、聞いてみたが。正解者は一人もいなかったという。また一般人でanthropologyが人類学と言う学問であることがわかる人は殆どいない。しかし、日本では中学生でも人類学と言う言葉を聞けば、およそどのような内容の学問であるか見当をつけられる。葉緑素もそうだ。日本人は「は、みどり、もと」とこの専門用語を身近な言葉につなげることで見当をつけることが出来るが、英語のchlorophyllはギリシャ語の素養がない一般人にはチンプンカンプンである。
 日本語は音訓二重読みのお陰で、一般民衆が専門用語に容易にアクセスできる世界ではまれに見る民主的な言語造り上げたのだ。そのため英米での新聞や雑誌などは少数のインテリを念頭に置いた高級紙と、一般大衆むけの大衆紙と言う際然たる格差がある。日本では国民の全てを読者とする全国紙がいくつもある。

<日本教のすすめ>
 鈴木教授は日本語教と言う新興宗教を興された。教祖は教授、信者は多くないそうである。日本は一時ほどの輝きを失ったとは言え、未だに世界第3位の経済大国で、大きな影響力を持っているはずなのに世界に向かっての言語コミュニケーション力が極端に不足しているために損をしている。日本に対する国際的悪口は「口の痺れた巨人」「声を出さない巨象」、そして意見は言わないけれど金だけは直ぐ出す「自動金銭支払い機」など。強大な経済力、言語交渉能力=言力外交は見劣りがする。それまで外国に一切迷惑をかけない国にあり方である鎖国から欧米諸国から無理やり出されて以来、急速に諸外国との直接の接触が急速に増えたが、言葉で未知の相手との関係を巧く処理する伝統が極めて弱かったので、第二次大戦終結まで常に戦争や敵対関係に陥ってしまったのではないか?
 それは日本人が外国語を専ら優れた先進外国文明を取り入れるための一方通行のツールとしてしか考えなかったからで、日本には優れたもの、学ぶべきものが沢山あることに気付き始めた外国人にとって、日本は、いわば暗号で書かれた分厚い本のようなもので、何か面白そうなことが一杯書いてあるようだが日本語と言う暗号の分からない解読できない。そこで日本人は自分たちの手で日本と言う魅力あふれる国を、日本語の分かる人を増やすことによって、世界に開く必要がある。日本語が世界の知識人層の中でごく普通に学ばれる言語であって、日本語の新聞雑誌や各種の書籍が諸外国でどんどん読まれていれば、日本と諸外国との間に何かと生まれる誤解や摩擦は遥かに減少するはずである。   
 それ以前にもこれまで日本語から外国語への翻訳の仕事は、少数の日本語の堪能な外国人の手のよるものであったが、ここに多くの日本人を投入して、大量の日本語文献をを外国語に翻訳して国外に送り出すことで、新しい知識輸出産業の地位まで高めるべきである。日本人の言葉による活動が、これまで外部世界に知られてなかった面白い考えや新事実を世界に広めれば、それだけ世界の人々の持つ知的財産の山をそれだけ高くすることに貢献することになる。
 小生も「日本語教」の信徒になりたくなった。

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July 13, 2018

飛鳥IIオセアニア・グランド・クルーズ航海記

Asuka


【グランド・クルーズに乗船を決意するまで】
 「飛鳥II」は私にとっては思い入れのある船である。日本郵船が四半世紀ぶりに客船事業に復帰しようと考えたのは奇跡の復興を遂げた戦後日本経済が最後の輝きを放ち、やがてバブルの狂乱に浮かれようとしていた1980年代の後半だったろうか。当時ジャカルタ在勤から帰国し、郵船調査部で海外情報の蒐集の任に当たっていたが、その調査部に対して経営トップから、客船事業についての情報を蒐集し、報告するようご下命があった。
 早速、調査に取り掛かり、今の客船のあり方は①かつてのタイタニック号やクイーン・エリザベス号などの定期航路に就航するスタイルではなく、観光バスのように観光地を周遊するクルーザーになっている。このコンセプトはアメリカで生まれ、カリブ海クルーズとして発達、定着しつつあること。②その船内構造は嘗てのタイタニック号のような、一等船客、二等船客、三等船客の階層化し、その処遇を峻別するという当時の厳格な階級社会構造をそのまま船内に持ち込み、可視化した構造ではなく、船室の広さ、豪華さの差はあっても、待遇は差別しないモノクラスでなければならないと言う設計思想となっていること。③これは決して主流とは言い切れないけれども客室を全部海に面したものとし、内側に窓のない閉塞感のある客室は造らないというAll Outside Cabin(AOC)と言う設計思想が注目を浴びつつあること。の三点を報告したという記憶がある。
 この報告の趣旨が全面的に採用され、かつて令名を馳せたNYKの客船事業を復活するにあたっては、「恥ずかしいものを創るわけにはいかない」と社内はやや浮かれたようにこのプロジェクトに熱中し、第一船を三菱重工に発注、一流の画家、彫刻家に頼み込んで、船内の装飾をしつらえた。
 この第一船こそ、就航後、主としてアメリカで活躍していたクリスタル・ハーモニーであり、2006年2月にその船を日本に戻し、「飛鳥II」と改名した。
 そのような思い出もあって、兼ねて喜寿と金婚の記念に、この思い入れのある飛鳥IIの世界一周クルーズに乗船したいとの密かな望みを懐いていた。しかし家内の口説きに取り掛かったが、「100日ものクルーズは長すぎる」と「けんもほろろに」断られてしまった。
 それではと40日弱のオセアニア・クルーズを提案、ようやく家内の同意を得た。しかし、オセアニア方面にはそれなりの因縁がある。昭和36年4月、入社早々豪州定期航路のライン・アシスタントを命じられた。初出勤早々豪阿南米課長から「君に、豪州線に就航している4隻の船の運航を任せる。何時も船の動静を正確に把握しておくように」と申し渡された。その後、席に着くや否や名古屋支店から電話があった。「Arita Maruは今何処にいるか?」の照会。その時豪州線に就航していたのは、AKITA,ARIMA,ASAMAなどローマ字に直すと一字しか違わない船がゴロゴロ。いきなりそんなこと聞かれてもと、パニックに陥り、とっさに「船は海の上にいます」と答えてしまった。するとそれこそ数分も経たないうちに「今年の新入社員には素っ頓狂な、とんでもない奴がいる」と言う悪評が郵船ネットワークを通じて全国に拡散してしまった。新入社員の未経験、不安な心境を一顧だにすることなく、悪評を撒き散らすのは、何という薄情な、或いは惻隠の情のない会社かと、とんでもない会社に入ったものだと初日早々落ちこんでしまったのも、今となっては懐かしい想い出である。
 人生の駆け出しで手荒い歓迎を受けた豪州航路に今度は船客として乗船するのには深い因縁を感じざるを得なかった。
 そこで紀貫之ではないが、今回のグランドクルーズ乗船の想い出を航海日誌(ログブック)風につづり、記録することにした。

【船内風景と乗客たち】
2018年1月28日
0914読売ランド発の電車で、横浜港でのオセアニア・グランド・クルーズの飛鳥II乗船のために出発。1015頃日本大通り着。1030前客船ターミナル着。1100過ぎ乗船。荷物の整理に取り掛かる。大量の衣類その他で大変。何とか引き出し、やクローゼットに収まる。やれやれ。昼食にメイン・ダイニングで隣り合わせた夫婦は世界一周に2回、オセアニアに3回、日本一周にも行きましたといういう大変なリピーターであることが判明した。海運界で30年間も碌を食んだ小生が今生の思い出にと参加したのが、馬鹿らしく思える位仰天した。夕食の際のお隣さんはハワイ住まい、成田に一泊して、乗船したというが、世界一周にもアジア・グランド・クルーズにも乗船経験があるベテランと言う。会う人会う人皆リピーターで、飛鳥IIは初めてですと名乗るのが恥ずかしいくらい。乗船早々カルチャーショックを受けた。日本には金持ちが沢山いるものだとも。乗組員のボーイやウェイター、ウェイトレスには各々顔なじみのお得意船客が乗船してきたらしく、「久しぶり」「お帰りなさい」と言うような挨拶を交わしている。まるで銀座のホステスのようだ。1900~2015ナイトショーRythm of Lifeを鑑賞後、12階の大風呂に行く。大風呂は気分が良い。大風呂はクリスタル・ハーモニーを日本に戻して、飛鳥IIに改名する際に、日本人向けに新たに設置したもの。日本人にはやはり風呂が一番だ。

1月29日
0600過ぎ起床。やることがないので船内探検に向かう。12階から5階までくまなく歩く。11階の三方ガラス張り眺望絶佳のビスタラウンジでは0600からモーニング・コーヒー(パンなどもサーブしてくれる)のサービスがあり、すでに4~5人が椅子に座って、本を読んだりしていたので、一旦部屋に戻り、本を持ち出して、ビスタラウンジに戻り、トマトジュースを注文。0700頃6階に移り、ストレッチの講習を受ける。0730頃へに戻り、家内と11階のカジュアル・レストラン:リド・カフェに行って朝食。結構美味かった。1000~1045トランプ・ゲームの講習を受ける。昼はまたリドカフェで食べる。はるか向こうの淡路島の端に明石大橋が見えてきて間もなく、神戸港着。入港着岸の様子を見学しようと7階プロムナードデッキに降りるが、猛烈な風で寒い。ほうほうの態で、屋内から外が見えるビスタラウンジに移動し、入港の様子を見学。その後ラウンジで新聞の読み残しを読む。1645~1700のSailaway Ceremonyを見に7階プロムナードデッキに降りたが、温かいワインを飲んでも猛烈に寒い。最後まで見ずに、退散。1715~1850夕食。今夕のお隣さんは松山のお医者さん。もう退職されているというが、アジア・グランド・クルーズにも参加したとか。要するに初めてと言うのは珍しいということか? 1915~1930船長、機関長などによる鏡開きのお祭り。樽酒がおいしかった。

1月30日
朝、0600前起床。7階プロムナードデッキを一周歩いてみる。船尾デッキは波浪で濡れているが、それほど寒くない。一路南下した効果はテキメンだ。その後パームコートに直行。「モンテクリスト伯」第3巻を読み始める。0700寸前まで読んで、ストレッチ会場に行くが、もう満員、マットがなくなっている。朝食の際、同席したご婦人は叔母さんのお供できたとか。日本一周クルーズが気に入って、乗船中に世界一周を申し込んだら、もう満席と言うので断念し、オセアニアを申し込んだという。7月の時点で来年の世界一周が満席とは。毎日驚くことばかり。夜は船長主催のウェルカム・パーティーに続いて、フォーマル・ディナー。年寄りばかりだが、何となく華やかな雰囲気にはなった。堤船長は昭和63年入社。神戸商船大学卒。小生の27年後輩となる。入り口で「寺島船長や稲垣船長と同期です」と挨拶しておいた。63年と言うと小生が郵船の調査部長になった年だから、ほぼ入れ替わりと言うことになる。船長の挨拶によると、今回の乗船客は526人と言う。船客の定員は872名だから、かなり余裕があるということになるが、空き室があるという話は聞かなかった。船室を1人で占拠している優雅な人がかなりいるということだろうか?
2030より山形由美のフルート・コンサートを鑑賞。

【太平洋戦争の激戦地を往く】
1月31日
0600前起床。11階パームコートでお茶、FAX受信された共同通信ニュースを読む。0630~0650プロムナードデッキのウォーキング講習に参加。0700~0730ストレッチ。リドカフェで朝食。1000~1015写真講習会オリエンテーションに参加。1100~1145社交ダンス講習会。講習中に本船が硫黄島1マイル沖を通過し始めた。講習を途中で抜け出し、硫黄島の様子をつぶさに観察。西端の摺鉢山以外は平たんな台地。自衛隊のレーダー基地などがあるらしく、兵営らしき建物、レーダードームが見える。あの摺鉢山で日米軍が死闘を繰り返し、多数の戦死者を出した場所だと思うと感慨を禁じえず、ひそかに黙とうを捧げた。自衛隊員達が駐留しているだけで、一般住民はいない筈なのに日本の携帯電話が通じるのには驚いた。NTTドコモも,auもアンテナを張ってサービスしているようだ。
午後1415~1545リドカフェでコントラクトブリッジ講習。1630~1700初乗船者歓迎パーティー。そこでの抽選で運よく船長テーブルでの夕食の栄に浴した。1988年入社と言うから、娘の大学卒業より1年早いだけだ。郵船では4年くらいダブることになるが、ほぼ入れ替わりと言う感じの世代だ。昔話に花が咲いた。

2月1日
大分東に航海したので、船内時間を1時間早める。0600前起床。パームコートでジュースを飲み、Fax版読売新聞を読む。0630のウォーキング説明会に行くが、今日は風がきついので、ウォーキングは中止と言う。仕方なく自分でウォーキングをやろうと思ったが、どうせならとジョギングに切り替える。5周2.2キロを走る。その後ストレッチ。汗かいたので、12階大風呂で汗を流す。家内はブリッジ教室教室に出かけ、小生はパームコートで「モンテクリスト伯」。1100~1145社交ダンス教室。ブルースのステップがうまく行かない。昼は5階メイン・ダイニングで、ちらし寿司。1415~1545ブリッジ教室。2000~2040アスカオーケストラ・バンド・ショー。

2月2日
0800サイパンのベイカー埠頭に入港。マトソンのコンテナ・ターミナルらしく、マトソンのコンテナが沢山積んであるが、ガントリー・クレーンがない。ここには貨物量が多くないのでギア付きのコンテナ船が来るのだろう。マトソンは郵船のコンテナ化開始時の提携先、コンテナ・オペレーションの師匠筋にあたるが、外航船は儲からないと見るやさっさと撤退し、米本土/ハワイ間の内航サービスに特化し、今も隆盛を続けているようだ。蓋し慧眼と言うべきだったのかもしれない。
船上での入国審査の後、1020頃上陸、沖合に浮かぶ絵のように美しいMahagana島に向かう。1周1.4キロのサンゴ礁に囲まれた島の周辺の海は目の覚めるようなエメラルド・グリーンに輝いている。「エーゲ海の青い海」と言うが比べものにならないくらいの美しさだ。浜辺でビーチチアに寝そべり、水遊び。ブイ沿いの海には熱帯魚が沢山見られた。1515頃帰船。直ちに風呂で塩を流す。1645節分祭り。乗組員の鬼や太鼓で盛り上がる。出港後1816頃水平線沈む夕日が鑑賞できた。ほぼ完ぺきな落日風景だった。初めての経験だったかもしれない。中には珍しいグリーンフラッシュを目撃できた人もいたようだ。夕日が沈む左にテニアン島が見える。万歳クリフの悲劇など、日米激戦の末、サイパンが陥落した後、隣のテニアン島に飛行場を整備し、東京大空襲のB29、広島、長崎への原爆搭載機エノラ・ゲイの出撃基地となった。平和な飛鳥IIからその島影を見るのは複雑な心境である。
最後の水路ブイが終わりパイロットが下船するまでの出港風景も見学できた。

2月3日
本日は終日航海。海はかなり荒れているらしく、7階プロムナード・デッキのドアは閉鎖。朝はまだ開いていたので、11階で新聞一覧、モーニングコーヒー後、プロムナードデッキを4.5周した後ストレッチ体操。1000~1045元文化放送アナウンサーの堤江美女史の講演「日本語の美しい響きの秘密」、なかなか面白かった。1100~1145社交ダンス教室。ブルースのステップがなかなかうまく行かず、嫌になる。1415~1545コントラクトブリッジ教室。その後アイスクリームを食べなら、昨晩の夕食隣席の叔母・姪2人組とおしゃべり。出身は小生と同じ長浜と言い、奇遇である。子供はいないし、お金を残しても、しょうがないので、楽しむことにしている。日本一周は2回乗船したし、来年はアジア・クルーズを下船までに申し込むという。意外とそういう人が多そうだ。夜はJille On Board Concert.
 
2月4日
1000~1045第一回写真教室。講師はシステム・エンジニアを辞めて、アジアと世界を放浪した末、写真家に転向したという。「絶景写真」の撮り方。なかなか面白かった。その後また社交ダンスの講習。やはり上手く行かい。嫌になるが構わず続ける。
1300~1330各会場に分かれて、県人会。同席の夫婦は磯部夫妻。世界一周に3回乗船。今度はアジアクルーズに乗るという。誰に会っても、「参った。参った」の連続。日本にはそんなにも金持ちがいるのかと言う感慨。
今夕の夕食のドレスコードはインフォーマル。
飛鳥メールを開いたが、もちろん受信なし。パソコンルームの女性に助けてもらって、家族のアドレスをアドレス帳にインポートに成功。やれやれ。

2月5日
1500ニューブリテン島のラバウル沖を通過。ラバウルは第二次大戦中日本の海軍航空隊の基地があった港だ。「さらばラバウルよ。また来るまでは。しばし別れの涙がにじむ」の軍歌が思わず口をついて出る。こんなにも遠い、赤道直下の暑いところまで戦線を拡張した日本はある意味で大したものだとも思った。
昨夜1933赤道を通過したのを記念して、本日1900~1930プールサイドで「赤道通過祭り」で、ゲスト・エンターテイナーの瀬木貴将(南米民族楽器演奏者)が扮するネプチューンから船長が赤道通過許可を受ける寸劇で盛り上がる。昼過ぎ「1000日乗船者」記念プレートを克明に見た。1000日以上乗船者は56人、2000日以上乗船者は1名はETUKO KOSAKAさんと言う。1000日以上乗船と言うと世界一周に10回も乗らなければ達成できないということだ。
午後PCルームで家族あてEメールで近況報告。サイパンでWIFIが繋げなかったし、ケアンズでもその機会に恵まれないかも知れないので、取りあえず近況を連絡した。

【南半球は別天地だが結構時化る】
2月6日
ソロモン海峡を通過して、ニューギニア当前方のEast Islandを通過して珊瑚海に入った。穏やかな航海。航跡が濃紺色で美しい。社交ダンス、ブリッジの講習をこなす。夜2100頃星空講習。真っ暗な海の上ではは星が良く見える。オリオン、昴、ベテルギウス、シリウス、マゼラン大星群など。時間がまだ早く、偽南十字星は見えたが、本物の南十字星は見えなかった。そのうち雲が広り、何も見えなくなったの途中退散。

2月7日
今朝は若干寝過ごし、0615起床。ウォーキングに飛び出したが、すでに太陽が高く、サングラスをかけないとまぶしい感じ。5周するつもりが、4周で終わってしまったようだ。低気圧が接近してきたらしく、終日雨模様。ダンス講習もふらつき、ステップがうまく踏めない。午後のブリッジ講習も気持ちが悪いと中座する人する人もでる。11階リドカフェではウェイターが年寄りの女性には腕を貸し、お盆も受け取って、席までエスコートする様子は堂に入ったもの。一流介護士も顔負けだろう。乗り組みの訓練しつけが行き届いているのに感心した。夕方またJelleの第二回コンサート。
インフルエンザが流行し、そのうえ大時化で気分が悪くなった所為か、夕食も空席が目立つ。

2月8日
今日はケアンズ入港の日。
0535起床。ケアンズの入港シーンを見るため、ウォーキングをしながら、港へのアプローチを見ながら歩いていると、0600頃船尾から回り込んだパイロット・ボートからあっという間に港内パイロットが乗船した。着岸まで時間がありそうなので、大風呂に行く。朝日を浴びながらの入浴は雄大な気分になる。風呂談義で話した人は八ヶ岳山麓、野辺山の牧場経営者だったが、数年前に牧場経営をたたんで、その記念に世界一周クルーズに乗ったという。初めて金持ちの社会的背景の一端が分かった。
0840ギャラクシーラウンジに集まり、Kuranda Forestationへのオプショナルツアーに出かける。1020頃ケアンズ郊外のフレッシュ・ウォーター駅から高原観光列車に乗り込む。この列車はかつては金山への資材人員を運ぶ鉄道だったものを観光用に転用しもの。途中大きなU字カーブがあり列車の前後見えるのと、バロン川の雄大な滝が見ものだ。1200Kuranda駅着。アーミーダックと言う軍用水陸両用車に乗り込み。アマゾンよりも古いと言う世界最古の熱帯雨林を見学。珍しい蝶、亀、トカゲ、樹、シロアリの巣などが見られた。1300頃カンガルーの肉、鰐のスープなどのビュッフェ昼食。1410~1500Kurandaの街でショッピング。1550帰船。1700出港風景を見るため早風呂。1700~1840ごろまで出港風景を見守るが、なかなか航路筋に出られない。サンゴ礁が続く所為か。あきらめて、山田雅人の「語りショー」を見に行く。今日も橋田寿賀子さんが夕食に来た。
Cairnsからは世界遺産エアーズロックへの四泊一日のオプショナルツアーがある。498オーストラリアドルと高額でもあり、ケアンズ・シドニー間の航海を放棄する形ともなるので、果たして参加者がどれだけいるのだろうかと疑問に思っていたが、最少催行人数15名の処、70名もの参加者があったという。またまたみんな金持ちだと感心した。

2月9日
今朝は7階プロムナードデッキが全面閉鎖。風がきつい所為らしい。ウォーキングは不可能にとなった。ラジオ体操とストレッチに切り替える。
セールス・オフィスに立ち寄り、雑談。「シドニーから200人もの区間乗船者が乗ってくるという噂は誤報で、区間乗船者は23名とのこと。
1600~2000 Deck Dinner & Fruits Buffet。一種のお祭りで、ニュージーランドからのマウイ族の歌と踊りは迫力があり、フィナーレに近づくにつれて大いに盛り上がる。
このデッキ・ディナーで同席した夫婦は飛鳥は初めてと言う。今までパシフィック・ヴィーナス→日本丸→飛鳥IIとグレードを上げながら、3船目になるが、日本丸の方がフレンドリーで、料理も美味かったとの評価。乗船後2~3人から「日本丸とは比較になりません」と聞いていたが、初めて商船三井の日本丸の高評価を聞いた。

2月10日
本日はドレスコードはインフォーマル。1700以降その格好で過ごせということなのだが、カジュアルのまま、食事(1900)前の長唄のショウを見に行ったら叱られた。食事の時だけ、ジャケット、ネクタイで行けばよいと思っていたが、そういうことではないらしい。失敗。反省。
2130よりスターデッキで星空観測。憧れの南十字星、シリウス、銀河、冬の大三角形、六角形、スバルなどが良く見えた。南十字星から5倍するとそこが南を指すというが。南極星と言うのはないらしい。ブリスベン近くまで来てようやく南十字星が見えるということは、ジャカルタあたりでは、夜相当遅くならないと、上に上がってこないということになる。ジャカルタで南十字星を見た記憶がないのは無理ないかも知れない。

2月11日
本日はストレッチとダンス教室、1000~1045写真教室第2回以外予定なし。午後、パームコートとビスタラウンジで新聞と読書。0930頃イルカの接近が見られた。明日はいよいよシドニー入港である。入港準備をする。

【世界三大美港シドニー】
2月12日
0700ごろシドニー湾の入り口を通過、次第にシドニーの高層ビル群とハーバー・ブリッジの遠景が見え始める。0750頃オペラハウスを通過、ハーバーブリッジを通過したのも0750過ぎ。世界三大美港と言われるシドニー港は大きな湾の中にさらに中小の湾が入込、緑多い公園や、瀟洒な住宅が点在する。息をのむような美しさだ。湾が大きすぎ、のっぺらぼうで、工場群しか見えない東京湾とはえらい違いだ。
 間もなくWhite Bayの入り口で船を180度転回して、タグボートが曳航、本船もアスタンをかけて、出船の状態で後退しながら接岸の態勢に入る。0835頃、着岸。客船専用岸壁ではなく、何の変哲もない、寂しい岸壁。隣にP&OのPacific Explorerが着岸していた。飛鳥よりだいぶ大きな船だ。しかし、ハーバーブリッジ横のバースに泊まっていたのはもっと大きいらしい。Radiance of the Seasと言うクルーズ船だが、GVTとは何処の船社かは不明。なんでもそのサイズの船はハーバーブリッジをくぐれない高さの船だという。3隻もの大型客船が同時入港しているシドニーの魅力は大変なものと感心する。
ハーバーブリッジは「洋服かけ」の愛称を持つアーチ形の重厚な鉄橋。車道だけで8車線、ほかに鉄道、歩道も通っている。1932年に8年かけてこのような巨大な橋を架けたオーストラリアの国力に感心した。
1030本船発のシャトル・バスで中心地近くの国立海洋博物館へ向かう。海洋博物館からPyrmont橋を渡って、中心地に向かう。ビクトリア女王時代の古い建物のビクトリア・ビルディングのギャラリーを抜けて、ヒルトン・ホテルを見つけ、スタッフに聞きながらようやくWIFIが繋がる。家内が喜んで、早速家族にLINEを入れる。折り返しシドニーに短期留学したことのある孫娘から「タンガロン動物園か、マンリー・ビーチに行け」との返事が来る。ひとしきり交信した後、やることがないのでCircular Quayまで歩いてみる。その辺で丁度1230になった。夕方オペラ鑑賞もあるので、大事をとって1330のシャトルバスに間に合うよう折り返し、海洋博物館に戻ることにする。1255頃到着。橋のたもとでアイスクリームを食べ、海洋博物館横のシャトルバスに乗り込む。
1400前帰船。さっとひと風呂浴び、1530発でオペラハウス行きのフェリーに向かう。1625頃オペラハウス着。1700~1800飛鳥貸し切りでのオペラ歌謡コンサート。服部郵船クルーズ社長の挨拶の後椿姫やカルメン、トーランドット、などのさわりの部分を謳いあげたもの。良い声に圧倒される。

2月13日
朝、飛鳥の前の埠頭には昨夜P&OのPacific Explorerの出帆した後、今朝には早速Seas Princessが入港していた。
0930発のシャトルバスで出発。途中コンビニで市内の電車、バス、フェリーが自由に乗り降りできるOpal Cardを買って、10ドル入金し、国鉄の電車に乗り、Circular Quayまで行き、Manly Beachへのフェリーに乗ろうとしたが、マンリーに行くには若干料金が足りないことに気がつき、岸壁の自動発券機でOPALに入金しようとしたが、2枚目がうまく行かない。埠頭の売店で入金してもらい、マンリーに向かう。1102頃マンリー着。海岸に向かって目抜き通りを歩く。まさに「ビーチ・リゾートへの道」と言う感じの洗練されたたたずまいだ。ビーチではサーファーやシュノーケルで泳いでいる人など、ハワイとあまり変わらない雰囲気だ。海岸線を岬の方に向かって歩き始めたが、家内が草臥れたらしいので、岬経由帰船をあきらめ元の道を戻る。途中スターバックスで、コーヒーとヨーグルトを注文。ヨーグルトは食べきれない量だったので、食べ残し、飲み残しをテークアウトし、フェリーに戻る。1215のフェリーに丁度間に合った。1345頃Circular Quay着。ロック地区の古民家カッドマンズ・コテッジ、囚人たちが手作業で掘ったというアーガイルカットを見物に行くが、見るものがマニアックすぎると言って家内の機嫌が悪くなる。またCircular Quayまで戻って、総督夫人のお気に入りの場所だったというMrs.Macquaries Chairまで行こうとするが、家内が草臥れたと言ってご機嫌斜めになり、早く船に帰りたいと言う。それではとPyrmont Bayへのフェリーで海洋博物館まで帰ろうとするが、どの埠頭から乗って良いか分からず右往左往。しかし、オプショナルツアーの訪問地McMahons Pointに立ち寄れたのは儲けものだった。1520頃帰船。
1845~1915プールデッキでボン・ボヤージ(出航)パーティ。埠頭では誰も送ってくれず、代わりに隣に係留していたSun Princessの乗客が見送ってくれた。  

2月14日
本日は風が強し所為か、プロムナードデッキは使用禁止。ウォーキングを断念。朝風呂→ストレッチ。緯度が上がり結構涼しくなる。
1915~1945 5階アスカ・プラザでフォーマルディナー前のアプリティフ。バンドの演奏付きで華やかな雰囲気に包まれる。
2月15日
本日は終日航海。朝、7デッキの右舷側ドアが開いていたので、1周をウォーキング、やや肌寒さを感じたので、あと4周はジョギングの切り替える。丁度良い気温。南緯42度にもなると、季節は夏でも涼しい。1000~1100の宇宙物理学者佐治晴夫博士の「美しい人生の暦をつくるために―時間の不思議と向き合う」は面白く示唆に富んでいた。哺乳類の一生の心臓の鼓動回数は20億回。1秒に10回も鼓動する30gのハツカネズミの寿命は3年、重さ十数トンのクジラは100年近く生きる。人間の寿命も大体百歳。記憶としての「過去」の価値は、これからの「未来」を如何生きるかによって、いかようにも書き換えることが可能である。「これから」が「これまで」を決める、と言うことだった。
夕食前ロビーで区間乗船の服部郵船クルーズ社長に挨拶する。

【世界の秘境:ミルフォード・サウンド】
17:31 2018/02/16
本日はニュージーランドのフィヨルド:ミルフォードサウンド航行の日。0800頃湾の入り口に到着。パイロット乗船。湾内に入る。海面から1600mの山がせりあがる景観は見事。湾の奥に見える滝は160mの落差を誇るという。その奥は雪渓が見えた。3000m位の山かもしれない。途中オットセイも見られた。
ニュージーランド南島の東南端に位置するミルフォードサウンドは世界の秘境と言える。ノルウェーのフィヨルドにも行ったかとがあるが、ノルウェーのフィヨルドは鉄道、バス、観光船が四方八通で観光的に開発されつくしている感じだったが、ここは如何にも秘境と言う感じ。陸路アプローチするのも天候次第では通行不能となることがあるなど、やはり秘境と言う名にふさわしいたたずまいだ。
ミルフォードサウンドの次にさらに南のトンプソンサウンドに行くことになっていたが、乗客の安全を考えてスキップして、ウェイリントンに直航することにしたという。どういうことか? 途中湾内でバウスラスターを駆使して360度回頭して見せたのはせめてものサービスと言うことか?
1730頃風呂からの帰りにシドニーからオークランドまでを区間乗船する郵船の亀田君夫妻に会う。8001号室と言う。
夕食は亀田夫妻と同席する。
南半球の幸福度が高い福祉国家ニュージーランド
2月17日
本日は終日航海。朝、それほどの風とは思えないが、7階プロムナードデッキは右舷左舷のドアとも閉鎖。船尾のみ開いている状態。5周をジョギング。午前中激しい雨。視界悪い。サイクロンがニュージーランド来襲の恐れありとのことで、ウェリントン到着を速め、オークランドでの給油を前倒ししてウェリントンで給油することにしたと言う。2100すぎ給油岸壁に接岸。明朝客船バースに移動する。本日は山下春幸と言う特別招聘シェフによる新和食のディナー。メインのローストビーフは天下一品の美味だが、それまでにも山海の珍味を生かした料理が続き、ご婦人方は無念ながら食べ残した人が多かったようだ。勿体ない。

2月18日
朝埠頭を移動するというから、全く別ののところかと思ったら、同じバースの延長線上を100m程度移動しただけ。前夜飛鳥が止まっていたバースにはシドニーで隣に泊まっていたSea Princessが停泊していた。同船はミルフォードサウンドには行かなかったのだろう。
0940の集合時間で市内半日のオプショナルツアーに出かける。まず国会議事堂に行く。そこにはメルヘンチックで結婚式の記念写真の背景になる国会図書館、議事堂、ビーハイブと呼ばれる閣僚の執務室などがある。その近くに旧政府庁舎がある。これは世界に二番目に大きな木造建築と言う(一番は東大寺大仏殿)。しかし木造建築のようには見えない。
次にケーブルカーに乗る。真っ赤なケーブルカーが街に映える。上の駅の展望台からのウエリントン港の景色は息をのむほど美しい。熱海や香港に似ているようにも思える。その後ローズ・ガーデンを見学。バラ、ベコニアが美しい。一角に日本庭園があり、原爆被災地広島市から寄贈されたFlame of Peaceという石が設置されている。
次にいったん山を下って、再び別の丘マウント・ヴィクトリアに上る。ウエリントンの街全体見渡せる。ウエリントンが海沿いに開けた街であることがわかる。展望台からは空港、飛鳥も、テ・パパ・トンガレワという国立博物館も見える。
1315頃帰船。再びシャトルバスで市中に向かう元気はなかった。デッキから今日訪問した展望台やケーブルの終点を双眼鏡で探したが、何処かとはっきりは特定できなかった。山が沢山あるということだ。
1700ボンボヤージ・パーティで盛り上がる中、オークランド向け出港。Auckland到着予定(ETA)は2月20日1100。

2月19日
サイクロンがオークランドを襲うかもしれないという惧れは、熱帯低気圧が温帯低気圧にかわったこと、および進路が南島方面に向かう公算が大となったことから、かなり軽減されたようだ。明日1100の入港は大丈夫そう。夕食で隣席の夫婦は滋賀県在住。長浜生まれと自己紹介したら、親しみを感じたらしく、話が盛り上がった。「我々の世代は竹槍でアメリカと戦う覚悟だった」と言うから、90歳ぐらいかと思ったら昭和16年生まれと言う。小生より3歳も若い。しかし結構な貫禄で、話の食い違いに大笑い。
オーストラリア、ニュージーランドの歴訪先が増えるにつれて、何処に行っても、キャプテン・クックの因む地名が至る所で耳にする。ジェームス・クック船長は英国の農場労働者の息子として生まれ、船会社で見習い水夫を経験した後、海軍に入り、艦長に栄進した。1768~1779年には3度にわたる南太平洋航海では、豪州、ニュージーランド、トンガ、ニューカレドニア、クック諸島、ニューヘブリディース島などを発見。英国領と宣言した。大きな足跡を残したことから、嫌でも彼の名前を各所で目にするのは無理もないことである。

2月20日
本日オークランド入港の日。曇り時々雨の予報だが、0600過ぎ7階プロムナードデッキに出てみるとそれほど天気は悪くなさそうだった。大分暑くなってきた感じだが、ジョギングすることにした。通常のウォーカーの1.5倍のスピードだということが判明。感心したのは、数日前から杖をついた老人が杖をつきながらウォーキングを始めた。小生のジョギングの1/2のスピードだ。しかし、杖をつかねばならぬほど歩行が不十分な人がなお運動をしようと言う意欲に感服した。『「これから」が「これまで」を決める』という佐治博士の講演の趣旨もこう言うことだったかと納得した。
0900頃から1100の着岸まで、沢山の人々が、11デッキや12デッキの船首部分に集まり、入港風景を見守った。
午後は1230集合で「牧場体験とスカイタワー」のツアーに参加。牧羊犬の活躍風景と羊の毛刈りはこれまで見たこともないショーで結構面白かった。折り返して市内中央のスカイタワーを見学するスケジュールだが、バスに乗り込むころから、土砂降りの雨がふり始めた。どうなることかと心配したが、市内に入るころになると嘘のように晴れた。スカイタワーの展望台からは360度の市内の眺望を堪能。1740過ぎに帰船。1930からの夕食を早めて1800頃からにしたいと頼んだが、手遅れと断られた。
仕方なく、埠頭上に建てられたヒルトン・ホテルに行き、WIFIを繋ごうとしたが上手く行かない。結局ホテルの従業員に助けてもらって、LINE接続。一族に報告を入れる。
1930~2040夕食。夕食後小生はまた下船して、フェリー埠頭まで探検に行く。埠頭まで戻り、タブレットPCをWIFI接続したところ難なくつながった。今日の外出はこれで打ち止め。しかし、乗組員たちはこの時間になっても次々夜の街に繰り出していく。久振りの余裕のある停泊で、仕事から解放され、命の洗濯ができると言うところだろうか?

2月21日
朝0600に船を出て、早朝市内探検に向かう。フェリーターミナルまで行き、キー・ストリートをクインズ・ストリート方向に右折したが、地下鉄工事で道が塞がれているように見えたので、そのクイーンズ通りを更に左折した処、フリートマト駅に来たので、見学することにした。大きな地下駅だ。0600過ぎだが次々電車が発車する。郊外に通勤するのだろうか? その後クイーンズ通りまで戻り、ウェルスキー通りを南下して、帰途につく。ヴィクトリア通を過ぎたところにスーパーマーケット:メトロを発見。さらに途中土産物店:アオテア土産店を発見。ほぼ目的を達したので、帰船。丁度0630頃となり、ここオークランドで下船する郵船OBの亀田君、服部社長を見送れるかと思ったが、運悪く行き会えなかった。
0850集合の「オークランド半日観光」に参加。タマキドライブ→サベージ記念公園→オークランド戦争博物館→ウィンターガーデン→パーネルロードのコース。サベージ公園は戦後初代首相の功績をたたえるために造られた公園と言う。サベージ首相がニュージーランドの社会福祉国家としての基礎を築いたという。医療費はただ。年金も税金から支払われ、教育費も無償。税金は高いが、暮らしやすく、国民の満足度は高いという。戦争博物館では先住民族マウイの文化を大切しているのに感心した。マウイ民族は台湾、フィリピンなどのアジア人が渡来したもので、約800年前と言う。
サベージ公園での解説によると、あちらにもこちらにも噴火によって出来た小山が見えるという。ニュージーランドが大変な火山国だということは不覚にも知らなかった。大地震が起きても不思議ではない。1200過ぎ帰船。昼食ご1330ごろまで休憩。市内に買い物に出かける。OKギフト→アオテア→メトロの順に回り、クッキー、蜂蜜(Manuka Honey)、羊のぬいぐるみ、チーズなどを買う。1530頃帰船。すぐにヒルトンに出かけ、LINE送信、その後バイアダクト・ハーバー方面を散策。大型ヨットが沢山係留されていて、City of Sailingの名に相応しい景観だ。1700過ぎ帰船。パスポートを返却。風呂に入って、アトラクションと夕食。
本日の歩行数は18034歩。途中で足が痛くなる。
出港時オークランド港には飛鳥のほか、シドニーで隣に停泊していたSea PrincessとFred.Olsen Cruise LineのBlack Watch(リベリア船籍)が在港していた。北半球の冬の季節は南で稼ごうということだろうか? 同じようなルートで多数のクルーズ船が運航している様子だ。

2月22日
今日はそれほど暑くないので、プロムナードデッキをジョギング。ストレッチ。ダンス教室では足が痛くなる。
1000~1155佐治晴夫博士の講演「般若心経を科学する―262文字に秘められた生き方指南」。「心の救済を描いた般若心経の論理を数学の立場から読み解くと、意外にも、最先端科学が描く世界や素粒子の世界観に近いことがわかる」と言う極めて難解な講演だが、会場はほぼ満員の盛況。このクルーズ船客達は殆ど年寄りばかりだが、結構知的レベルが高いということかと驚いた。

2月23日
本日も終日航海。メイン・ダイニングでの昼食の際、隣り合わせた乗客が郵船の元機関士だった。昭和7年生まれと86歳と言うから、「ひょっとして、昭和29年入社の青柳さん、稲富さんなどご存知かと聞いたら、同期だという。もっとも家業の酒屋を継ぐため、6年で退職したという。杉並区和泉町在住。青柳さんの話や、兄が住んでいた方南町周辺の話で盛り上がる。奇遇と言うべきか? セールスオフィスの話だと「何回もお乗りいただいているお客さん」だとのこと。
午後。セールスオフィスを冷やかしに行く。今年の世界一周は満席の人気と言う。オセアニアと世界一周の間のつなぎのショート・クルーズも爆発的な売れ行きと言う。世界一周から帰投後の夏休みシーズンも結構盛況と言う。しかし、世界一周の予定がない来年は1~3月のアジア・クルーズ終了後は目玉がなく、苦戦するのではないかと。友達と国内クルーズを安く乗れるのチャンスかもしれない。

【天国に一番近い島―ニューカレドニア】
2月24日
0800前ヌーメア港に入港。0850「ヌーメア半日観光と博物館」のツアーに出かける。まずFOLの丘に行き市内を俯瞰し、その後朝市見学、次に博物館を見学した。ポリネシア文化がよく保存されている。またバスに乗り、ウィントロの丘に向かう。リゾート地のアンスバタ・ビーチを経由。丘に向かう。丘からはサンゴ礁の島がいくつも見えて美しい。ウィントロの丘はヌーメア随一の観光スポットらしく、多くの観光バス、観光バス・トレインが沢山来ている。1200過ぎ帰船。食事後休憩。1300過ぎから再び下船上陸。ショッピングと市内探訪に。しかし、熱帯地方の夏とあって、結構暑い。1500過ぎ本船に逃げ帰った。1715からの出航祝のセレモニーは盛り上がるが、入港時に迎えてくれた「民族楽器と踊りとの見送り」がなかったのは残念。
埠頭の隣には「TE SUBCOM CONNECTIVTY RELIANCE」と言う船種不明の船が停泊していた。海洋観測船の類か? 隣の湾にはシドニーのハーバーブリッジ横に停泊していたExplorer Of the Seasが停泊していた。同じく今朝入港。ニュージーランドでは見かけなかった。どういうルートでヌーメアに来たのだろうか?

2月25日
0601のご来光を観測。水平線上に雲があり、日の出は少し遅れた。
終日航海。熱帯地方に近づき、大分蒸し暑くなってきた。ストレッチ、ダンス教室。ブリッジ教室。

2月26日
今日の日の出も水平線上の厚い雲に邪魔されて、不発。上空には雲はないというのに。
1800~2000 11階のプールデッキで飛鳥IIの12回目の誕生日を祝うバースデー・デッキ・ディナー。12回目の誕生日と言うのは2006年にクリスタル・ハーモニーを改装して日本船籍(国籍証書)を取得し、飛鳥IIとした日と言うことか。堤船長は第12代目と言うから、それも符合して目出度さも倍増と言うことだ。
プールデッキでのディナーと一連のセレモニーは乗組員、乗客が入り乱れて乱舞し、盛り上がった。三遊亭金時師匠も席に来て写真に納まった。

2月27日
アレクサンドル・デュマ「モンテクリスト伯」7巻を読了。翻訳が若干古く、字が小さく、最初登場人物の役割がつかめず、読むのに苦労したが、央を過ぎてからは、一気呵成に読めた。子供の時、「巌窟王」と言う児童向けの翻案本を読み、主人公エドモンド・ダンテスは自分を無実の罪で、イフ島の牢獄に14年も放り込まれたが、脱獄に成功し、自分を無実の罪に陥れた人たちを次々に復讐していく痛快さに心躍らせた記憶はあるが、細かい筋はほとんど覚えていない。この大部の書を児童向けにどのように料理して、書き換えたのか、不思議な気がする。
 
2月28日
本日終日航海。朝雨。ご来光も、夕日落日も不発。1700過ぎ赤道を通過し、北半球に入る。ジョージ・オーウェル「1984年」を読み始める。下船までに読み切れるか?

3月1日
午前中0900~1000ブリッジ(操舵室)見学会。
1000~1045「ジャンケンリレータイム」1100~1145「イカ蹴とばしタイム」に参加。他愛無いゲームだが、結構楽しめた。10(5ⅹ2)アスカドルを獲得。
1300~1345小川エンタテイメント・ディレクターの「タイタニックの真実(なぞ)」の話。結構面白かった。タイタニックと飛鳥はほぼ同じ大きさ。タイタニックの1等船客の英国/ニューヨーク間の運賃は1日当たり80万円。3等船客のそれは5000~2万円だったという。
夕食で隣席の夫婦。エアーズロックに行ってきたという。「飛鳥のケアンズ/シドニー間の航海を放棄し、A$988(約100万円)もするオプショナル・ツアーに参加する人とはどんな人種か」と疑問に思っていたが、大阪で印刷業を経営していたが、姪に事業を譲り、現在は相談役、老人ホームに入り、世界一周にも乗ったという。お金には困らない身分と言えるのだろう。国民学校入学・卒業と言うから、85歳以上と言うことだろう。優雅な身分と言うことになろう。主として商品のラベル(醤油瓶のラベルとか)の印刷を引き受けていたので、安定した商売だと言えるようだ。

3月2日
本日、終日航海。1000~1045カローリング(カーリングの船上デッキ版)大会に参加。1500~1545輪投げ大会に参加。わがチームは2位。30アスカドルを獲得。
夜はトロピカル・カジノ大会。ルーレットで持ち点をすってしまった。残念。
今日家内が耳にしてきた話。ある老人女性はこのオセアニア・クルーズの後、3月末からの世界一周クルーズに参加すると言う。荷物はこのまま郵船クルーズに預けっぱなしと言う。これも驚きだ。「よくやるよ」と言う感じ

【恋人たちの聖地-グアム】
20:42 2018/03/03
0800最後の寄港地グアムに入港。早速午前の部の「グアム半日車窓観光」に参加する。先ずアグエダ砦に行き、ハガニアの街(グアムの政治行政の中心)を見下ろし、スペイン広場を車窓観光。19世紀末の米西戦争までグアムはスペイン領だったことを知った。メキシコ・フィリピン貿易路を守備する拠点だったという。次に恋人岬に行く。恋人岬は悲恋の若い二人が身を投げた断崖絶壁の地。恋愛成就、新婚の前途幸福を願うハート形の絵馬がぎっしりフェンスにぶら下がっているのは見事。湯島天神の合格祈願絵馬を上回る数かも知れない。それはみんな日本人の仕業だろう。昨今、中国人、韓国からの観光客も増えているようだが、そのような書き込みは見られなかった。観光バスを観光土産物ショッピングの中心:タモンで観光バスを途中下車。Tギャレリアの前にあるJCBラウンジに駆け込み、早速WiFiを利用させてもらい、孫のI君のI高校合格を知る。「おめでとう」を発信。TギャレリアとABCマートで土産物を買いたし、1420頃帰船。冷やしウドンの昼食。1645からの出港セレモニーには地元少年、少女の民族舞踊の見送りが見られ、プロムナード・デッキは盛り上がる。

【さらば飛鳥よ、また来るまでは】
3月4日
本日も終日航海。1100~1145 12階スカイデッキでのパットゴルフ・タイムに参加。風が強く、船の揺れもあって、ボールが打った場所よりも遠いところまで戻ってしまう状況で、散々なスコアだった。
1915~19305階アスカプラザ(ホール)でアスカコーラス教室の発表会で第九の合唱披露。家内が出演。結構沢山の観客でにぎあう。

3月5日
1000~1045 シャッフルボード・ゲームに参加。1430~1600 ブリッジ教室最終回。なんとなくコントラクトブリッジの全貌がつかめたという感じ。
1900~1945船長フェアウェル・パーティー。乗組員が総出で出演する記念のショウはなかなか力が入っていた。本日は最後のフォーマル・ディナー。
1700頃 小笠原諸島の父島通過時、携帯の電波が繋がり、ネット接続出来た。ラインで家族に明後日横浜帰着を伝える。

3月6日
本日、最後の終日航海日。明日0900には横浜入港だ。
1000~1045最後のビンゴゲームに参加。それが終わって、本格的な下船荷物のパッキングに取り掛かるや否や、本船は寒冷前線の真っ只中に突入。本船の動揺激しく、波しぶきが8階、9階まで吹き上がる始末。パッキングに意気込んでいた家内はいささかグロキー。手荒い帰国歓迎に見舞われ感じだ。下船時には治まっていると良いのだが。

3月7日
0530頃眼が覚めて、窓の外を見たら既に右舷側に町の灯が見える。どうも館山辺りらしい。0600過ぎ風呂に行ったら浦賀の発電所の煙突が見える。左手に城ヶ島が見える。いよいよ帰って来たなとの感慨。0800頃ベイブリッジを通過。0900予定通り客船バースに着岸。39日間もの長期航海が終わった。1100頃下船。入国手続きは本船側で一括してやってくれ、荷物も既にカート2台に乗せられており、税関検査までは本船側のポーターがカートを運んでくれ、税関からは代理店の社員がクロネコヤマトの窓口まで運んでくれる。全くスムーズ、苦労はいらない。桜木町までのシャトルバスに乗り込み、1200過ぎの横浜線快速で町田経由新百合ヶ丘に1240着。新百合ヶ丘で買い物を済ませ、1400頃帰宅。東京は最高気温8.3℃とまだまだ冬の寒さだ。熱帯の暖かになれた身体には堪える。
帰宅後郵便物の整理など。

【39日間の大航海を終えて】
 今回のクルーズは39日間、飛鳥クルーズが催行するクルーズは百日を超える世界一周クルーズに次ぎ、二番目に長い航海である。
 実は小生にとって、一週間を超えるクルーズは二回目である。前回は2013年5月6日から23日までの18日間、パナマ運河経由ロスアンゼルス~ニューヨークの航海に乗船したことがある。
 それは飛鳥IIの全くの同型姉妹船の「クリスタル・シンフォニー」で、主として米国市場で主として米国人をターゲットに営業している船で、オーストラリア人、中南米、欧州、オーストラリアの人々と若干の日本人が乗船する国際色豊かなクルーズ船である。
 このクルーズを終えた後、その想い出を記録した航海日誌に下記のような感想を記録している。
「本船はクイーン・エリザベスII と並ぶ、ラグジュアリー・クラス との評価を受けている船だけに、それ程けばけばしくはないが、落ち着いた豪華さは中々のもの。以前に乗船したMSCの地中海クルーズのカジュアル船に比べると、万事に余裕があり、ゆとりのある船内生活を楽しめた。かなりの乗客がリピーターと言うのも肯ける。平均年齢は75歳を優に超えていたのではなかろうか? 車椅子の乗客、歩行器に頼る乗客も多数見られた」と。
 同じ設計図を基に建造した船であるだけに、乗船した途端に何となく自宅に帰って来た感じで、船内の様子など全く違和感はなかった。また乗客層についての印象もあまり変わらないが、年齢層は飛鳥の方がかなり高齢だったように思える。腰の曲がった人、杖をついた人、歩行器に頼る人も多く、車椅子で移動する人も多かった。
 リピーター比率も飛鳥の方が高かったのではないか。本文中にも記したが、同席して話した人の殆どがリーピーターで、世界一周、アジア、オセアニアの大航海に何度も参加したったのには正直驚いた。
 野村総研の調査(2016年)によれば、金融資産5億円以上を有する超富裕層は7万5000世帯、1~5億円の富裕層は114万世帯で、それぞれ総世帯数5290万世帯の5%、14%に相当する。
 都度数百万円の支出を伴うこれらのグランド・クルーズに何の躊躇いもなく何度も参加できる人たちはこの超富裕層と富裕層の精々10%弱の上層部と言うことになるのだろうか? しかし、最上位10%の富裕層と推定される割には、如何にも貴婦人然としてお高く留まっている人や、見るからにお金持ちという紳士淑女がゴロゴロと言う風には見かけなかった。ごく普通の小父さん、小母さん、お爺さん、お婆さんと言う感じの人たちばかりだ。かつて日本は1億層中流社会と言われたが、その後経済経済格差が進んだだけで、日本は階級社会の歴史が浅く、富裕層と言うのは所詮底が浅い成り上がり者に過ぎないということだろうか?
 けれどもマーケティング的には金融資産5000万~1億円の準富裕層準富裕層(総世帯数の17%)にウイングを延ばさなければ、やがて客層がじり貧に陥るのではないかと危惧される。しかし、日本近辺にはカリブ海、地中海などと言うような海象が穏やかで随所に観光地が点在する地理環境に恵まれず、5年前乗船したパナマ運河クルーズのような比較的リーズナブルな料金の2週間前後のスケジュールを組みにくいのが弱い処かも知れない。
 クルーズ中、社交ダンス教室は途中で挫折したが、コントラクトブリッジ教室は最後まで挑戦しつづけることが出来、初級クラスを卒業できた。クラスを終えるにあたって、講師を務められた沖谷邦先生(NHK文化センターの青山教室講師)『ブリッジの魅力は①理に適ったゲームであること、②素敵な友達ができること、を挙げられて、ブリッジで「鍛えられた知力は簡単には衰えない」』と言うメッセージを「はなむけ」とされた。
 このメッセージはコントラクトブリッジに限らず、クルーズ・ライフ全体に通じることではないだろうか?

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October 06, 2017

中島京子「長いお別れ」読後感

 ラジオ深夜便の0415~0450までシリーズ番組「明日への言葉」で作家;中島京子がアルツハイマー認知症にかかった父親を最後の十年間を見送った経験を語っていた。それを小説化したものがこの書物である。
 同女史の両親は父は中島昭和中央大学教授(フランス文学)母は同じくフランス文学者で明治大学教授)。作中では父親東昌平は静岡大学を出て、都内の中学校長を務め、その後図書館長にもなったという設定となっている。母曜子は平凡な主婦と言う処か。主人公には三人の娘がいる。長女茉莉(海洋生物学者の妻でカリフォルニアの研究所で研究中)、次女菜奈は食品メーカー勤務の夫に嫁いでいる。三女芙美は30台でまだ独身、フードコーディネーターという仕事をしていると言う設定。著者はこのうち誰なのか不明だが、三女なのではなかろうか?
認知症の最初の兆候は同窓会に出かけた昌平が「開催場所が何処だったか」分からなくなって帰ってくるところから始まる。その後徘徊が始まり、GPS機能付きの携帯電話を携行させたところ、後楽園で「どうしてもメリーゴーランドの乗りたいが、小さい妹は大人がいないと乗せられない」と乗車拒否されて、困っている姉妹に頼まれて、メリーゴーランドに同乗したりする。
 その後「家に帰る」としきりと言うので、静岡の実家に連れて帰ったりするが、病状は進行するばかり。デーサービスにも嫌がらずに通い、漢字テストなどでは驚異的な成績を示す。国語教師だったからだ。
 サンフランシスコに住んでいる長女の処に連れていかれたが、空港でも「家に帰ろう」と連発するが、娘宅で開かれたパーティーでは飛び入りで参加した長女の夫の元カノとうまく調子を合わせる。親しく話しかけてくる人は中学教師時代の教え子だと勘違いしてしまうようだ。
 しかし帰国後、その内言語機能も失われ、意味不明の言葉を発するようになる。娘たちは父親を老々介護する母親の大変さは理解しているのだが、自分の生活(長女は海外、次女は夫の両親と同居とのため引っ越し、おまけに高齢妊娠する。三女は仕事が立て込んでいる)にかまけて、三姉妹ともそれほど親身になり切れない。
 ところが母曜子網膜剥離を起こして、緊急入院し、昌平も熱を出して救急が来て入院するに至り、ようやく事態の深刻さを理解するに至る。三女芙美が呼ばれ、次女茉莉が千葉の夫の実家から呼び寄せられる。長女も独り東家の緊急事態に一人取り残されている状態に焦るが、次男の崇が不登校になっていることで、クリスマス休暇に学校から面談に呼び出されており、ままならない。ようやく12月30日に富んで帰って来たが、さらに事態は金融自体を迎えていた。昌平は原因不明の発熱が続き、「一週間が山ですが、人工呼吸器をつけるか、更には胃瘻なども選択肢に上がります。人口呼吸器も胃瘻も、本人がご本人の力ではもう成し得なくなった生命維持活動を人工的に行うものです。ご家族が希望されるなら行いますが、しかし、QOL(Quality of Life)の観点から、この立場は分かれますので、ご家族のご確認を取りたいのです」と言われてしまう。母曜子と三姉妹は相談して、「父は望まないと思います」と回答する。QOLは人が自分らしく生きていくことができる質的な幸福度のことだとしたら、一日4回の清拭(特に局部の)に強く抵抗し、怒って喚き散らし、腕や足を突っぱねるのだから、望んでいる訳がないと思ったのだ。
。 
 題名の「長いお別れ」といのは、不登校になっていた崇が校長先生との面談の際に、校長先生に「祖父が亡くなりました」と話したら、校長が「10年前から認知症か。それをLong Good Byeと呼ぶんだよ」と教えてくれてくれた処からとったようだ。

にの

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クライド・プレストウィッツ「近未来シミュレーション2050日本復活」読後感

 著者のクライド・プレストウィッツは1940年デラウェア生まれ。ハワイ大学東西センター修士課程修了。ペンシルバニア大学ウォートン校MBA、その間慶応大留学。
 国務省、民間企業、商務省、レーガン政権下で商務長官特別補佐官として、日米貿易交渉にあたる。現在、経済戦略研究所長を務める知日派である。
 この著作は経済・政治予測と言うよりも、むしろ日本に入れあげた知日派の著者の「日本にこうあって欲しい」と願う近未来小説と言うべきであろう。

<2050年の東京>
 主人公は2050年、超音速ジェット三菱808機(ボーイング社は倒産、三菱重工に買収された。世界の大手航空会社の長距離路線は三菱808の独り舞台だ)に搭乗し、35年ぶり東京羽田空港に降り立つ。羽田は今や成田に代わる東京の表玄関になった。都心まで30分。無人自動車や高速鉄道が都心へ運ぶ。入国審査も通関手続きもない。すべて機内で審査されている。飛行機を降りると彼の荷物を積んだロボットが迎えてくれる。
 日本は風力や太陽光、潮流、海流、メタンハイドレートなどさまざまな低コストのエネルギー資源を開発し、そのエネルギーを貯めておく装置も開発した。日本はエネルギー輸入を必要とせず、完全なエネルギー自立を果たしている。
 東京には1000メートルを超す高層ビルが林立している。世界一の日本の耐震建築技術の発達と、炭素繊維を芯に使ったウルトラロープのお陰である。ウルトラロープのお陰で1000メートルの高さまで1本のエレベーターで行けるようになった。
 ホテルに着くとホテルマンが非の打ちどころのない美しい国際英語で出迎えてくれる。 近年治療目的で来日する外国人が増えている。損傷を受けた神経や機能不全の手足を修復する再生医療など最先端の治療法を求めてやってくる医療関係者もいる。
 アフリカのマリで開かれたオリンピックでは日本選手団は80個の金メダルを取った。日本人の体格も向上し、コーチ陣も優秀、全く新しいトレーニング方法を生み出した。ヨットの「アメリカン・カップ」は「ヤマト・カップ」と改称した。
 日本は全人口と労働人口が増加し続けている数少ない国の一つだ。特殊合成出生率は2.3人。人口置換水準の2.1人を上回っている。
 高等教育を受けた専門性の高い技術を身につけた移民も増えた。オフィスにいる幹部のほぼ半分は女性や外国人となっている。
 日本のビジネス・スクールが進化し、世界最高峰となった。トップ3は一橋大、慶応大、京都大で、4位に欧州のINSEADと続き、ハーバードはベストテンにすら入らない。
 戸建て住宅や集合住宅も大きくなり、瀟洒な造りとなった。広々とした居住空間は一般家庭にも住み込みの家政婦や介護ヘルパー用の部屋を設ける余裕を生んだ。

<2017年の危機と日本再生委員会> 
 このバラ色に未来図に比べて、2017年の日本は悲惨な状態にあった。アベノミックスは行き詰まり、中東情勢は緊迫しイランと湾岸諸国のとの紛争が激化し、ホルムス海峡が封鎖され、原油価格は300ドルに跳ね上がる。また中国海警が尖閣に上陸。沖縄には独立運動が激化する。挙句は日本の戦後経済成長のシンボルであったソニーがサムスン電子に吸収される。
 今、日本が直面しているのは明治維新と敗戦後の日本が経験した、国の存在そのものが脅かされる危機に直面している。こうした自覚から2017年5月国会は第二の「岩倉使節団」=特命日本再生委員会を創設する法律を定めた。
 その日本再生委員会の下記の答申(処方箋)を実行した結果、2050年には見事に蘇り、あらゆる分野において世界をリードするようになったというストーリである。

1.パックス・パシフィカ
 日本は竹島を韓国に譲り、国内の難題に足を引っ張られ、余裕を失った中国との間で尖閣問題を国際仲裁に付託する一方、中国企業にも日本や外国企業と共に、この海域の石油とガスの探査・採掘権を与えることを提案して片を付ける。
 近隣国との関係を改善した上で、日米安保条約の枠組みにインドが参加し、さらにはオーストラリア、インドネシア、フィリピンも加わり、「大同盟」と呼ばれるようになった。大同盟は今やNATOよりも重要な意味を持つようになる。大同盟のお陰でアジア太平洋、インド洋、ペルシャ湾に及ぶ地域全体に平和と安定が保たれてようになる。注目すべきはこの多国間の安全保障をリードするのは米国ではなく日本だということ情勢が生まれる。

2.女性が日本を救う。
 女性の就業率を高め、子育てと両立させる施策やが講じられ、婚外子や養子が差別されたり、肩身の狭い思いをされられる原因となっている戸籍制度は廃止された。その結果、女性の就業率は飛躍的に高まり、出生率も高まる。また有能な技能者、ビジネスマン、医療や介護にかかわる労働者を積極的に受け入れることとする。

3.バイリンガル国家:日本
 Native Speakerを大量に採用し、幼児期から英語に親しませ、英語を第二公用語にする。TV番組、ニュースには全て英語字幕を入れる。その他の大規模なEnglishnization=英語化を実施する。有能な移民を勧誘するためにもそれが必要である。これにより海外ともコミュケーションの強化・深化し、有能な人材が押し掛けるようになる。

4.イノベーション立国 
 日本の研究開発投資の額は決して少なくはない。しかし方向が間違っている。枯れかけた技術にこだわり、横並びの陳腐な類似製品のみを生み出している。
 「破壊的技術」:先進ロボット工学、自動走行車、次世代ゲノム工学、エネルギー貯蓄、3Dプリンティング、先端素材(ナノテクノロジーなど)、オイルやガスの探査・掘削技術、そして再生可能エネルギーなどにに重点的に投資すべきである。

5.エネルギー独立国
 太陽光発電、風力発電、地熱発電、など既知の再生エネルギーを開発整備するとともに、海流・潮流発電の利用を目指して、研究開発を進めるべきだ。日本列島には5ノットの速さで流れる潮流がある。これを利用すれば新型の水力発電ができる。原子力発電は放射能汚染の危険、廃炉コストがかかるので、廃止し、従来型の原子炉から出た廃棄物を燃やす統合型原子炉(IFR)の開発を進める(米アルゴン国立研究所が開発したが、連邦議会のの決議で1994に研究開発中止)。これだと廃棄物から放射性物質がなくなり、メルトダウンするリスクも少ない。
 しかし、発電量が安定しない再生エネルギーを有効に利用するためには、地域独占を前提に構築されているstand aloneの送電網を大幅に作り替え、柔軟に需給に対応できるスマートグリット型の送電網に再構築する必要がある。

6.ケイレツ・インサイダー型、既得権重視の経済構造の変革
 正規雇用と非正規雇用の差別廃止、コーポレートガバナンスの改革、セイフティ・ネットを「雇用を維持することが何よりも大切として、ゾンビ企業を延命させてきた」日本の失業保険制度を北欧型のFlexicurity(Flexibility+Security)に組み替える。軸足を「職場の保障」から「所得と雇用の保障」へと移す。その他、起業が容易な環境整備、独禁法適用除外の農協改革も必要。

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村上由美子「武器としての人口減社会-国際比較統計でわかる日本の強さ」読後感

著者の村上由美子さんは1960年生まれの52歳。現在OECD東京センター長を務めている。上智大卒業後スタンフォー大で国際関係論修士取得、国連に就職、平和維持部隊、国連開発計画を担当、国連官僚組織の非効率(パフォーマンスの悪さ)に嫌気がさして、ハーバード大でMBAを取得後、ゴールドマン・サックスに就職したが、その後やはり公的機関で働きたいと、OECD東京センター長の公募に合格して現職についたと言う。
OECD統計を駆使したこの著作の内容は出版社:光文社の紹介記事には

「35の先進諸国が加盟する国際機関OECD。日々収集される各種統計を読み解くと、日本は非常に「残念な国」である事実が浮かび上がってくる。労働生産性、睡眠時間、女性活躍推進、起業家精神……。さまざまな重要分野において、日本は主要先進国中で最低レベルである。しかし見方を変えれば、少子高齢社会、労働力不足であるからこそ、日本には他国にはない大きなチャンスが隠れていることがわかってくる。負の遺産を最強の武器に変えるため、豊富な統計をもとに、日本にとっての“ベストプラクティス”(最良の政策案)を考える。

第一章 人口減少が武器になるとき
第二章 眠れる「人財」大国・日本
第三章 女性は日本社会の “Best Kept Secret”
第四章 働き方革命のススメ
第五章 日本のイノベーション力を活かせ!」

とあり、論旨は明快、統計の語るところにも納得できる。しかし、第5章の「日本のイノベーション力を活かせ」の具体的内容は殆どないのが飽き足らないが、そこまで求めるのは欲張りというものか?
 要するに本書の訴えたかったことは、日本の人口減少は止められない。政府がいろいろ施策を講じれば、フランス、北欧諸国のように再び出生率が回復してくるかもしれないが、即効薬にはなり難い。
 ならば逆転の発想で人口減少を武器に変えるべきだというのだ。おりしも現在社会で進行しつつあるのはICT,AI革命である。ICT・AI革命が施行すれば、求められるスキルが変化する。非定形的な対人業務、非定型的な分析業務の需要が増え、定型的な手仕事業務、定型的な認知業務、非定型的な手仕事業務は減少する。それは基礎学力を備えた人材の需要が増えるということだ。
 その意味での日本人の潜在的スキル力は世界トップレベルである。PISA(Programme for Internaional Student Assesment OECD生徒の学習到達度調査)は有名で、日本は最近順位が落ちて、数的理解力は上海、シンガポール、香港、韓国、マカオに抜かれて7位、読解力は4位、科学的理解力は4位となっている。これの成人版PIAAC(Programme for the International Assesment for Adult Competencies)がある。これによると日本は読解力、数的理解力ともフィンランドを抜いて世界一である。 
 しかし、このスキルはまだ生きていない。日本の労働生産性の伸びは一位のルクセンブルグ、米国、EUに抜かれている。つまりこのスキル力が活かされいないのだ。ICT・AI革命の到来こそ、日本成人の潜在スキル力を活かすチャンスが訪れたということだ。しかも、日本は失業率が低く、人手不足状態が続く。ICT・AIが失業率を悪化させる抵抗感もない。ICT・AIは省力化として歓迎され、進行するだろう。
 しかも日本の中高年層は優等生である。調査対象の最高齢層の55~65歳の能力は驚異的に群を抜いて高い。日本の中高年層は訓練すれば、ICT・AI革命に容易に対応出来る基礎学力を備えているということである。
 また女性活用、就業率を上げることこそが日本のGDPを引き上げる隠し玉(Best Kept Secret)だという。何しろ成人女性の読解力、数的思考力の平均点はこれまた世界一なのだから。しかし賃金格差、差別意識(男性の方が女性よりも仕事に就く権利があると考える意識)は厳然と存在する。学生時代の仕事への意欲、「マネジャーやプロフェッショナルになりたい」という意欲はむしろ女性の方が高いのに、である。それが出産、子育て期の女性が正規雇用の場を離れ、再び仕事に復帰するときには非正規という風習(所謂M字カーブ)が事態を悪化させている。これは日本の損失である。しかもOECD統計上は女性の就業率が高まれば、出生率が増える傾向がある。日本より女性の就業率が高いのに出生率が低いのはドイツだけである。それは何故か? また「賃金格差が解消すれば、結婚したくなる?」とも。要するに「女性は日本社会の潜在力“Best Kept Secret”(隠し玉)」だというのである。
 更には日本はイノベーション大国である。OECD統計に「新興技術分野におけるトッププレーヤー」という統計がある。日本のウェート、存在感は「太陽熱収集器」を除いて、米国と並んで断トツである。しかし、「市場に新製品をもたらした企業の割合」はびりに近い。要するに日本はイノベーション大国で実力はあるのに、それが活かしきれていないのだという。その原因は「日本企業の大半が古い企業」だからという。しかし、飛鳥時代から続く宮大工の「金剛組」、室町時代に創業されたという「虎屋」などが、未だに健在だということは凄いことだし、日本の強みだと思うが、どんなものだろうか? 確かに大した技術、強みもないのに、唯々公的保証で生きながらえているゾンビ企業が多数存在することも事実だろう。対GDP比が低すぎるベンチャー・キャピタルの増やすことは必要だろう。
 アップルのiPhoneには別に画期的な技術でも何でもない。電話、音楽プレーヤー、カメラ、インターネットなど、何一つ画期的な技術はない。ただバラバラに存在していたそれらの技術を一つのプロダクトに統合し、拘りぬいたデザインに仕上げ、徹底したブランド戦略を立てて、マーケティングに力を注いで、イノベーションを巻き起こしたのだ。
 これからの時代は競争力のベースは嘗ての「製造」から、前段階の「研究開発」「デザイン」と、後段階の「マーケティング」「サービス」に移っている。特に我が国はサービス業の生産性が低いので、この部分を強化する必要がある。
 要するに村上女史が主張したいのは「少子高齢化を経済成長のプラス要因として、そしてビジネスの相対的優位性として利用するための条件を揃えている国は、日本以外には皆無といっても過言ではない」と言うことだろう。


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December 14, 2016

白石隆政策研究大学院大学長「海洋アジアvs.大陸アジア」読後感

「vs.大陸アジア.rtf」をダウンロード

 1992年に日本経済研究センターが発表した世界経済予測がある。それによると1990年現在の世界のGDPの地域別シェアは

         1990年   2010年(予測) 2010年(実際) 2018年(予測)
南北アメリカ   29.0% →  26.0%       25.9%     24.9%
アメリカ    26.7% →  23.4% 23.4% 22.3%
欧州        32.9% →  28.7%       25.6% 23.3%
アジア・大洋州  20.9% →  29.4%       28.8% 32.2%
 日本       12.7% →  17.5%        8.6%  6.1%
 中国       1.6% →   2.6% 9.3% 14.2%
であり、これを踏まえ、当時の日本人は「東アジアは近代世界経済史の檜舞台に今初めて登場しようとしている」と興奮し、その主役は日本であると考え、自信を抱ていた。
この予測は趨勢的には間違ってはいない。G7に代表される先進国の地盤が沈下し、新興国が台頭した。つまり、北アメリカ、欧州の地盤沈下とアジア・太平洋の台頭である。ただし、アジア太平洋で伸びたのは日本ではなく、中国だった。
 改革開放政策で中国の経済成長への道を切り開いた鄧小平はソ連崩壊時に「これからは中国が社会主義陣営の盟主になるべきだ」との党内の議論を抑え、「今の中国にはそんな力はない。中国は力を蓄えることに専念する」と言う戦略的選択(「韜光養晦」路線)したが、この予想外の中国の躍進によって、取り敢えず棚上げした大国主義ナショナリズム「中華民族復興の偉大なる夢」実現の為に次々と手を打つようになった。これがアジア・太平洋地域の戦略・安全保障を大きく揺さぶるようになった。
 中国は「九段線」で、南シナ海のほぼ全域を領海と主張し、この海域の島嶼・岩礁の領有権を主張するベトナム、フィリッピン、マレーシア、ブルネイと対立している。またナトウナ諸島周辺の排他的経済水域についてはインドネシアとも対立している。これらの国はそのつい沖合まで中国の領海だと主張されては我慢できないだろう。また東シナ海では尖閣諸島の経済水域・領海を中国の公船が毎日出没・航行している。
 その結果、南シナ海の領有権問題で中国と対立するフィリピン、ベトナム、インドネシアなどをますますアメリカ、日本、オーストラリア、インドなどの連携に追いやってしまった。いまASEAN諸国の大陸部東南アジアと島嶼部東南アジアでは安全保障、経済発展、などにおいて大きく課題が異なりつつある。大陸部東南アジアにはベトナム、ラオス、カンボジア、タイ、ミャンマーがあり、中国の影響が大きくなり、中国周辺の国々である。一方、島嶼部東南アジアはフィリピン、インドネシア、シンガポール、マレーシア、ブルネイで、これらの国々は、太平洋からインド洋にわたる広大な地域において、日本、台湾、フィリピン、インドネシア、インドとユーラシア大陸を囲むように並んでおり、またインドネシアからオーストラリアの島々と縦に繋がり全体として、ちょうどT字のかたちで、インド・太平洋の「背骨」を形成している。その骨格をなすのは日米同盟、米豪同盟を基軸とするハブとスポークスの地域的な安全保障システムである。
 現在のアメリカ中心の国際秩序の基本は主権国家システムで、主権国家間の合意によって条約が締結され、その長期にわたる相互作用の中で、規範、慣行が生まれ、それらを基盤に国際秩序が組み立てられている。これに対して中国の論者は「天下」秩序で国際関係を再構成しようとしているように見える。それは南宋、元、明、清の時代にあった朝貢システムを復活させ、21世紀型の朝貢システムを「天下」の秩序の基盤としようとしているようにみえる。主権国家の形式的平等と自由、公平、透明性の原則が広く受け入れられている国際社会において、中国の台頭によって、それがラディカルに再編され、形式的不平等と序列(ヒエラルキー)を一般原則とする21世紀型朝貢システムが復活することがありうるのだろうか?
 朝貢を迫る中国の元使を鎌倉政府は斬首したし、秀吉は明使を追い返した。上ビルマの王も元使を処刑した。仮に中国が「自分たちは大国だ」と思っても、他の国々が「だから、なんだ」と考えているところでは、天下の秩序は結局大国主義と札束外交に堕してしまう。2010年ハノイでのARF会合で南シナ海の行動を非難された中国の楊外相は「小国がなにを言うか、中国はここにいるどの国よりも大きい」と言った。また、中国政府は李克強首相とエリザベス女王との会見を要求し、2.4兆円規模の商談をまとめたという。そこに見えるのは「我々は大国だ、小国は黙っていろ、黙って、我々の言うことを聞けば、所詮、金目だ、そこを面倒見てやる」と言うことであろう。しかし、こういう大国主義と札束外交では中国中心の国際秩序は作れない。「所詮、金目でしょう」と思っていると、結局、金の切目が縁の切れ目になってしまう。中国の外交・安全保障戦略は極めて狭い国益観念に根差した、近視眼的なものでしかない。そういう自己中心的な近視眼的な行動が世界システムを混乱に陥れ。年々それが激しくなっている。中国と国境を接し、生殺与奪の権を握られているベトナム、ラオス、カンボジア、ミャンマーの大陸部東南アジアと従えることはできても、島嶼部東南アジアの共感は得られないであろう。
 しからば日本のGrand Strategyは如何描けばよいのか? 戦後日本の繁栄を支えてきたものは国際的には「アメリカの平和」「ドル本位・WTO通商体制」であり、国内的には「自由民主主義」「市場経済」であったのは疑う余地がない。中国が「富国強軍」の論理的帰結として、「アメリカの平和」に正面から挑戦するようになれば、日本としてもこれに対応せざる得ないであろう。「自分だけよければ」といって、「虫の良い生き方」を続けるのではなく、戦後日本がその下で平和と安定と繁栄を享受して来た自由主義的国際秩序を守り、発展させるのに応分の寄与ををすべきであり、そういう合意ができつつある。と言うのが本書の結論である。
 吉田ドクトリンを提唱し、戦後日本のGrand Strategyを描いた吉田茂首相は1960年代にこのドクトリンに疑問を抱くようになったという。「世界の一流に伍するに至った独立国家日本」が「自己防衛」において、何時までも「他国依存が改まらないこと」「「国連の一員としてその恵沢を期待しながら、国連の平和維持活動の機構に対しては、手を貸そうとしない」こと、これは「身勝手の沙汰、所謂虫のよい生き方とせねばなるまい」と言っていたという。これは初耳であった。
 東南アジア各国の各論では、「インドネシアの民主主義が4年間、毎年のように憲法を改正し、「弱い大統領」と「強い議会」を特徴とする大統領制民主主義ができあがり、民主化が定着しようとしている。また、地方自治、地方首長公選制も導入され、中央政府から34%もの一般分配金が交付され、地方自治が強化され、しかも地方自治体の新設が非常に容易になったこともあって、多民族国家インドネシアの民族アイデンティティ問題が地方政治に封じ込められるようなり、マルク、ポソの宗教紛争、アチェの内戦などもうまく地方に封じ込めることに成功したという。これも初耳である。

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«エドワード・ルトワック「中国4.0―暴走する中国」読後感